「知ること」ではなく、「創ること」。

現在は情報過多社会であると言われている。知りたいことがあればネット検索によって瞬時に表示することが出来る。そして社会においてはビッグデータというものが大きな価値を持ち、社会の行方まで決めてしまいそうな勢いである。では現代において情報の価値は上がったのか?それとも下がったのか?

もちろん、情報と言っても様々であるので、一括りで「情報の価値」と言ってもこれまた様々である。ただ一つ言えることは、ネット検索で瞬時に得られる情報などは何の価値もないと言う事だ。しかしそのような何の価値もない情報を価値のある情報に変えることも可能である。それは、得られた情報に思考という作業を加えて創造することである。従って「情報を知る」のではなく、「新たな情報を創る」のである。それが出来ると、ありふれた無価値な情報も、自分独自の価値ある情報へと変貌する。

得られる情報などは、国家機密とかでない限り誰でもそう変わりはない。ネット検索によって得られる情報は言うまでもないが、書籍に載っている情報も基本的には誰もが手に入れられる状態にある。なので得られる情報自体には何の価値もないことが分かる。ただ。書籍に書かれている情報を得るためには、ある程度の能動的なアクションが必要である。まずは書籍を手に入れて、そして「読む」というアクションを起こさなければならない。そういう意味では、ネット検索で得られる情報よりも書籍を読んで得られる情報の方が若干価値があると言えないこともない。しかしそれは、ネット検索によって得られる情報の価値が0.1くらいだとしたら、書籍を読んで得られる情報の価値は0.5というくらいのものである。しかしそこに「思考」という加工を加えると。その価値は100まで跳ね上がる。そのような事を繰り返し行っているのが、数学や物理学という学問だと言える。

「知ること」から「創ること」への脱皮は簡単な事ではないかもしれないが、小学校から大学まで繰り返されていることはこのような事であると思う。知ったかぶりには何の価値もない。しかし「創ったかぶり」(と言う言葉があるかどうかは知らないが)になることを目標にして生きるとこには大きな価値があると考えている。ビジネスも学問も創ったかぶり競争である。そしてそのような創ったかぶりな人間を、独創的人間と言うのである。

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