セオリーを破る。ただし結果が全てだ!

セオリーというものは強力だ。セオリーとは言い換えるとマニュアルともいえるが、このようなマニュアルがあるからこそ俊敏に迷わず判断を下すことができる。しかし、セオリー通りに物事を進めるだけだと、誰がやっても同じ結果にたどり着くだけだ。もちろん、それがセオリーというものだが、何かを打破しようとするとき、時にはセオリーを破らなければならない時も出てくる。

セオリーを打破しようとするとき、必要なのは勇気ではない。冷静沈着な判断力と、その先にある展望だ。これを見誤ると、必ずと言っていいほど失敗する。セオリーを破る人の多くは、結果として失敗をすることになる。しかしこのことは、決してセオリーを破るなということではない。時には失敗する確率が高くても挑戦すべき時があるのだ。

なぜ、失敗する確率が高いのに挑戦するのか?と疑問に思う人も多いだろう。そこで、この失敗というものについて考えなければならない。確かに失敗はする。しかし、その失敗は短期的な、単発的な出来事だ。物事は大局的に捉えなければならない。重要なのは、その失敗がこれからの糧になるかどうかだ。発展の見込めない失敗はすべきでない。しかし、栄養になる失敗は積極的に得て行かなければならない。

セオリーを破ることも同じだ。セオリーを破ることによって新しい可能性が見えてくる。新しい戦術が見えてくるのだ。セオリーを破ることは、新しセオリーを作ることに結び付く。新しいセオリーを作ることこそ、挑戦者たちの目標なのである。数学や物理学においても、新しい理論(セオリー)を作ることが最終目標なのである。

セオリーを破ることによる失敗は決して無駄ではない。そしてセオリーを破ることでしかたどり着けないところがある。ただし、現実は結果が全てである。セオリーを破るのなら、その先にある「新しいセオリーを作るところ」まで行かなければならない。

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