先を見ることは大事であるが、今を切り抜けなければ先はない。よってどうしても現在の事だけを見て全てを判断してしまう人が多い。もちろん多くの人は先の事も見ているとは思うが、ほとんどの場合先を守ることを考えて、先を挑戦する人は少ないように思える。
三歩先を見る、あるいは三歩先を読むためには当然のことながら、一歩先、二歩先を熟知しなければならない。そしてもちろん、三歩先がやって来るかどうかも分からない。しかしそのやって来るかどうかわからない三歩先を見ることに意義があるのである。そのようなやって来るかどうかわからない三歩先のことなど、ほとんどの人は考えようとはしない。だからこそ、そこで三歩先を読むことによって大きなアドバンテージを得られることになる。
三歩先とはかなり先の未来になる。現代の激変する世の中にあっては、少し先の未来でもどうなるかは想像するのは困難であり、三歩先を読んだところでほとんどの場合その通りにはならないであろう。しかしそれでいいのである。逆に読んだとおりにしかならないのであれば、それは大したことは考えていなかったという証拠である。激動する中で、その場その場で修正を掛けて行けばよいのである。そうすれば元々考えていたことではなかったことかもしれないが、修正を繰り返す中で読みは的中するのである。
三歩先までたどり着くまでに、あらゆることに遭遇するであろう。その中で新たな問題、新たな課題が見つかり、新たな発見があるだろう。問題が増えることは喜ばしいことである。なぜなら、一つの問題だけを解決するより、二つの問題を解決する方がより大きな成果になる。さらに大きな問題を複数保持することによって、あらゆる変化に対応できる。これがダメならこれでどうだと畳み込んで行けばよいのである。
僕の場合、現在大きな問題を二つ保持している。どちらも非常にエキサイティングな問題だ。その問題を解決すべき日々格闘している。もちろん机の前でペンを持って書物や論文と格闘するという、見る人によっては非常に地味な作業に思えるものであるが、これが非常に面白く刺激的でエキサイティングなのである。理論の三歩先を読むことは意外に簡単でも、それを実行して成し遂げるのは非常に骨の折れる作業である。しかしそのような事に取り組む価値は十分あると考えている。
人生の延長線上にある三歩先を見れば、自ずと自分の進むべき道は見えてくる。そして不思議にも自分の人生の全てが意味あるものに思えてくる。いや、そうして進むことによって自分の人生に意味付けをしていくのかもしれない。それができれば人生が非常に豊富になり、そして非常にエキサイティングになって来る。