「保身」、それは僕が一番嫌いな言葉だ。しかし世の中、特に権力者は何かと保身に走りがちだ。政治家、学校教師、そして我々市民まで、自分の立場が追い込まれるとつい保身的な言動、行動をとってしまう。それは僕だって例外ではない。保身が大嫌いだと言いながら、時には保身への誘惑に駆られてしまう。だからこそ保身に対して断固拒否と言う意志を明確に維持しないと、自分の信念を貫くことはできない。
先日も自殺した生徒を学校側が突然死だと隠蔽しようとしていた事案が発覚した。これは学校と県が共謀して隠蔽工作を進めていたと言う。学校では、生徒が不慮の事故や病気、そして学校外の不手際による生徒の死亡に対しては例外なく「命を大切にしよう。事故を風化させてはならない。」と訴えかけるが、学校側の不手際による事故などに関しては徹底的に隠蔽しようとする。その典型が神戸でも20年以上前にあった。教師が校門で生徒を挟んで死亡させると言う「神戸高塚高校校門圧死事件」だが、事故後には学校側が徹底的な隠蔽工作を主導していた。そして徹底的に風化させようと進めていた。今はさすがにそんなことはないだろうと思っていたが、東須磨小学校で教員同士のいじめが発覚した。今でも神戸市の教育組織の体質は昔とそんなに変わっていないようだ。
僕自身そんなに立派な人間ではないと思うし、偉そうなことなど言えない立場かもしれない。しかし保身には絶対に走らないと強く心に決めているし、そういう意味では神戸市の教員のような隠蔽・保身に走るような人間よりかははるかにマシだと思っている。しかしもし僕が保身に走ろうものなら、皆で僕を叱り倒して欲しいと思う。