僕が司法・検察に対して厳しい意見を言う理由。

僕はこれまで幾度か、司法・検察に対して厳しい意見を言ってきた。昨日のブログでも、検察、そして元東京地検特捜部副部長の若狭勝氏に対して、これでもかと言うくらいにこき下ろした。僕がこのように検察に対して厳しい意見を言うのには理由がある。ゴーン氏が言っていたような検察批判に同調するわけではないが、現在の検察の在り方・体質に対して疑問に感じるところが少なくないからだ。

まず初めに述べたいことは、冤罪事件と言うのは司法・検察、そして国家による犯罪だと言うことである。不当に逮捕・拘留すればそれは国家による逮捕・監禁罪であるし、もし冤罪人を死刑に処すればそれは国家による殺人罪である。しかし、このような非常に単純な論理を、検察は全く認識していないように感じられてならないからだ。そんな事件追及は、正義でも何でもなく単なるエゴでしかない。

このような事を象徴するのが、冤罪に巻き込まれた袴田巌さんである。確かに、検察とは言え何かの間違いを起こすことはあるとも言える。しかし、実際に殺人を犯した殺人犯は裁判所でどう発言するだろうか?ほとんどの殺人犯は反省の弁を述べるだろう。しかし、袴田さんの冤罪に関して、検察は一向に謝罪の弁を述べないばかりか、自分たちを正当化して保身に走るばかりである。これはどう考えても、反省の弁を述べる殺人犯よりも悪質だ。袴田さんは年老いて何とか自由の身にはなったが、冤罪を証明されずに死んでいった囚人もいることは想像に難くない。

僕は検察を否定したいわけでは全くない。検察組織は社会にとって必要不可欠だ。しかしその在り方が問題なのである。体質とでも言うのだろうか?現在の強権的な(検察が強権的であるのは当たり前だと言えるが)検察が、その強権の使い方が明らかにおかしい事案が散見されることを僕は問題視しているのだ。検察側にとっては単なる間違いと言う一言で済ませることでも、冤罪犯にとっては命がかかっているのである。そのような認識を検察側が持つまでは、僕の厳しい意見は終わらないだろう。

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