「宇宙船地球号」とは非常に的を得た命名である。その名前の中には、宇宙と比べた時の人間の存在の小ささが表現されている。しかし現在、情報社会が飛躍的に発達し、コンピューターは極度に高度化し、科学技術の発展も留まるところがない。そしてそれと同時に科学理論も常識では考えられないような展開を見せている。そのような現状の中、宇宙というものをどう捉えるかと考えた時、もしかしたら「地球船宇宙号」なんてこともあり得るのではないかとふと考えてしまう。
もちろん「地球船宇宙号」などというのは、考える僕のおごりかもしれない。いや、そうであってほしいと思う。人間はまだ月までしか到達していないし、あと数十年経っても太陽系の外には出ることはないかもしれない。しかし人間の知識は過去から未来まで宇宙全体を飲み込もうとしている。少なくとも物理理論はそのような領域に達している。宇宙の誕生の原理さえも解明しようと必死になっている。ただこれらの理論は検証することが非常に難しく、正しいかどうかを判定できないところがもどかしい気がする。
一昔前まで、人間が自然(地球)を支配するという思想があった。現在は人間も自然の一部であるという思想が強くなったが、技術的にはかなりコントロールすることが出来る。特に負の支配、つまり環境破壊に関しては、人間の行動を意識的にセーブしなければ一瞬にして地球を破壊できるレベルまで来ている。しかしその逆、つまり破壊したものを作り直すことは非常に難しい事業であり、お金も時間も膨大にかかる。そういう意味では人間が自然(地球)を支配するというのは幻想かもしれない。
しかし人間の知は無限であるような気がする。それは何も人間の知によって全てのことが出来るという意味ではなく、自然法則をエンドレスに理解できるということである。宇宙から素粒子まで、人間の知のスケールは果てしなく大きい。とは言え、まだまだ道半ばと言える。そのような人間の自然科学の知は、科学“技術”へと応用される。そこが面白い所であり、恐い所でもある。
科学技術というものは必ずしも豊かさだけをもたらすわけではなく、負の側面もある。特に現代技術ではそれが顕著だ。最近ではゲノム編集された子供が生まれたということが話題になった。一人の科学者だけなら完全に倫理観を守ることはできるが、科学者が何万といる中ではその中の何人かが倫理観に反した行動を取るともわからない。さらに科学技術者自身は社会の発展のためと思ってしていることでも、それが破滅を招くことも十分にあり得る。科学の発展は進化か?暴走か?それが実際に行ってみないとわからないところが科学技術展望の難しい所である。