学問は役に立つのか?立たないのか?

学問は役に立つのか?立たないのか?このような疑問は小学生から大人まで多くの人が一度は疑問に持つことだと思う。そのような問いにどう答えるか?僕ならば一言「役に立たない」と答えるのみだ。しかし僕のその一言の中には非常に深い意味が込められている。

もし学問は役に立たず、学問をする意味がないと本気で考える人がいるならば、その人は学問をする必要はないと僕は思っている。学問が役に立つと思えず、する必要もないと考える人が、嫌々やる事ほど無意味なものはない。それは学問を究極的に究めようと思っている僕だからこそそう思う。

しかし、僕は学問を究める意味は非常に大きいと考えている。そして「役に立たない=する必要もない」という等式が成り立つほど単純な問題ではない。役に立たない、しかしやる意味は大いにあると考えるのである。そして特に、「役に立つ科学は、役に立たない科学から生まれる」ということも忘れてはいけない。役に立たないからやらないという姿勢では、社会は全く発展しない。現代の非常に発達した社会は、役に立たないかもしれないけどやってみようという先人たちの努力がなし得たものである。

僕は「役に立つか?立たないか?」という問いほど無意味なものはないと思っている。価値判断を、役に立つか?立たないか?という視点でしか見れない人の思想は総じて薄っぺらだ。物事の深さは役に立つかどうかとはほぼ無関係だし、それは学問においても同じだ。そしてもし本気で役に立つことをしたいと思うならば、まずは学問に打ち込み自分に人間としての広さと深さを作ることが重要である。もちろん、学問を究めなくても役に立つことはできる。しかし役に立つことの基盤を築くには、学問的思考が必要である。学問的思考がなければ、表面的な事に終始してしまう。

そして僕がここまで言ってきた「学問」という言葉は、何も数学・英語・理科・社会・国語だけではない。人間的哲学だとか経済的な事も含まれる。何も学校で習うことだけが学問ではないのだ。だから学校に行かなくても学問を究めることはできる。逆に大学に行っていても学問が出来ない人は多い。

これらの学問は習うより「ものにする」と言った方が正しいかもしれない。学問をどれだけものにできるか?それは自分の人間としての広さと深さに直結するものである。

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