これまで、そしてこれからも数学や物理の研究は続けるのだが、数学や物理の研究に取り組んでいて常に感じることは、数学や物理は自由だと言う事だ。突き詰めて行けば行くほど、それらの世界が自由であることを感じ取ることができる。自由であるからこそ面白くもあり、興味が広がるのである。
それに対して英語はどうだろうか?僕は中学生の時に学校で英語を習い始めてから、ずっと英語に対して苦手意識を持ち続けてきた。今でも英語は苦手だし、嫌いでもある。そして英語に対してずっと凝り固まったイメージを持ち続けてきた。英語はこうであるべきという一方的な考えがあり、決まったルールに従って、それから外れては絶対にいけないと考えていた。そのように考えてしまっては身動きが取れなくなる。そして英語を話すのが怖くなり、ますます英語が出来なくなる。そのような悪循環の中に僕はいた。
しかし、最近非常に分かりやすい英語の解説書(以前にブログでも紹介した)に出会い、英語に対するイメージが180度変わった。英語というものも非常に自由な学問だと気付いたのだ。しかしそのような事は少し考えれば当たり前の事である。日本語でも標準語以外の言葉はいくらでもあり。例え標準語を話すにしてもバリエーションは無数にある。そしてルールから多少外れても意味は十分通じる。日本語がそうなら、英語もそのはずである。イメージさえしっかりとつかめれば、意味は十分に通じるのである。
やはり、学問は自由であるべきである。こうでなければならないという凝り固まった考えでは学問は進まない。自由な逸脱が学問の深化をもたらすのである。そして理解すればするほど、どんどん自由になって来る。学問の一つの到達点は、自由を得ることである。もちろん英語などでは、実用性も非常に重要である。しかし学問的価値は自由性にある。数学が一番自由な学問であることは疑いないが、その他の学問においても非常に自由な世界が広がっている。最近の英語の勉強において遅まきながらそう気づくことが出来たのである。