今世界は寛容さを求められている。難民問題や性別問題などを解決して、誰もが安心して生きて行ける社会にならなければならない。日本は難民に対して閉鎖的だと言われ、性別問題に関してもかなり遅れていると言われている。そういう意味では日本はかなり閉鎖的だと言える。とは言え、世界的には寛容な社会へという潮流が大きく流れていると言える。
しかし何かが違うと感じるのは僕だけだろうか?もちろん難民に対して寛容な社会になることは(国家の利益的な問題はあるにしろ)必要不可欠なことであるし、性別関連の問題に対して差別や偏見をすることはあってはならない。しかし注意すべきことは、思考無き拡大解釈はしてはならないということだ。もともとは解決しなければならない問題であっても、その方向性を無批判に突き進めて行けば逆の意味で差別的かつ息苦しい社会になってしまう。問題を次の一歩へと進める時には、さらに進めるべきかと繰り返し思考しなければならない。決して思考停止的に拡大解釈を続けてはならない。
寛容な社会を作ることは非常に重要な事だ。しかし寛容化へと拡大解釈し続けてしまうとシーソーは反対側に傾き、再び不寛容で息苦しい社会になってしまう。社会政策はバランスが重要なのである。なので政治家などの社会政策施行者は常にその塩梅を見極めなければならない。
寛容な社会を作るためには、社会を構成する一人一人の人間の意識も重要になる。人々の意識が変わらなければ寛容な社会は作れない。一人一人の意識が社会を変え、国家を変える。そして世界が変わるのである。もちろん現時点ではどこの国家にもおかしいことはたくさんある。そしてそのようなおかしな部分はどんな時代になっても存在し続けるのかもしれない。しかしだからと言って、寛容さを追求することを怠っていはいけない。そしてその際には、方向性と塩梅を見極めながら常に立ち止まって熟考し、実行に移していかなければならない。