世の中では、物事を論理的に説明しようとすると、「それは屁理屈だ」と反論する人がいる。では、その様に反論する人がより道理的な事を言っているかと言えば、ほとんどの場合全く理に適ったことを言っていない。むしろ、理に適ったことを言えないので、「屁理屈だ」という言葉でそれまでの相手の論理を全否定しようとする。
しかし僕は、「屁理屈でも、理屈が無いよりマシだ」と思っている。なぜなら、屁理屈は理屈への出発点であり、理屈は論理の原点であるからである。理屈が言えない人は皆、論理を語ることが出来ない。
しかし人間社会においては、論理で語れないこともたくさんある。世の中や人間関係は論理ではない。しかしそのような論理でないところを理解するためにも、論理的思考力は必要である。論理的に物事を考えられない人は、論理で語れないことも理解できない。僕自身、普段は物事を論理的に考えることを出来るだけ避けている。そして論理で語れないことを大切にしている。しかしそう考えられるのも、自分に論理というバックグラウンドがあるからだと思っている。
論理的に考えられない人が論理でないことを語り出したら、全てが崩壊する。論理的であること、そして論理的でないことを全て成り立たせるためにも、論理的バックグラウンドは必要である。もし論理など必要ないと言うのなら、人間とその他の生物の違いもなくなってしまう。もしそうなら、人間はオオカミと同じ生活をしているはずだ。しかし現実には人間には独自の生活様式が存在する。その根源は、理性、知性というものを人間が保持している事にあり、理性や知性は論理、すなわち理屈なしには語れない。屁理屈に始まって、それを知性にまで高めることが出来れば、物事の捉え方が大きく変わるはずだ。