日本は自由が曖昧だ!

日本は果たして自由な国なのか?世界的に見ればどちらかと言うと自由な国であろう。ではなぜ日本は自由な方なのか?それは戦後、日本がアメリカ陣営に組み込まれたからに他ならない。なのでどちらかと言うと、受動的に自由主義国家になったと言える。そのような受動的自由化を進んできたせいか、日本は自由の扱い方が非常に下手であると僕は常々感じている。

他国が、はたまたアメリカがどれだけ自由か?と言う問いに関してはいろいろと議論があるだろう。アメリカだっておかしな自由がある。その代表が銃所持の自由であろう。そんな自由ははっきり言って百害あって一利なしと言えるし、銃所持の自由は実質犯罪者の暴力の自由となっている。その点、日本においては一般人の銃所持など考えられず、それが高度な治安の良さにつながっている。そのような点だけ見ても、日本はアメリカよりも優れていると言える。

しかし思想的に見た時に、日本の自由と言うものはやはり受動的であり、一応自由ですよと言う感がプンプンする。自由が大事だから自由を守ると言うよりかは、世界的に見て、あるいは西側諸国の制度から見て自由は必要だから、仕方なく自由にしていると言う感がする。だから自由と規制に関する施策がちんぷんかんぷんな事もしばしば出て来る。そして学校においても、自由について考えると言う教育はほとんどなく、規則は守りましょう的な、半ば共産主義的な教育を押し進めると言うことになっている。何も規則、規制が悪いのではない。なぜそのような規則、規制が必用なのか?と言うことを全く考えないことが悪いのである。そのような土壌に自由を根付かせようとしても無理な話である。

ではそのような現状を変えるためにはどうすれば良いか?それはもう教育しかない。学校とは学問を教えるところだと思っている人が多いが、それは全く的外れだ。学校とは「考える」ことを実践する所なのである。すなわち教育の全ての根っこは考えることにある。学問の授業などはその手段であり本質ではない。自由な社会には必然的に、全ての人がそれぞれ自分の頭で考えると言うことが必要になる。すなわち、何も考えずに受動的にしか動かない人間しかいない社会に自由などありえない。自由と能動的思考は両輪であり、自由を社会に根付かせるためにもそれぞれの人間があらゆることに思考を巡らせる必要がある。

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