無駄を最大限に生かす。

社会全体が効率主義的になり、「効率的=正義」のような単純思想が蔓延しているように思えてならない。もちろん、効率を求める事にはメリットも大きい。そして全体を底上げするには、効率性を上げる事が一番効果的である。

しかし、個人の行動や人生、あるいは学問において、効率性だけを求めるのはどうかと強く思う。そして「無駄」というものも意外と無駄ではない。無駄を省くことは重要かもしれないが、「無駄を最大限に生かす」という発想は非常に重要である。無駄を生かして成しうることは、効率主義を追求してできる事とは全く質が違う。科学では、「失敗がきっかけで気付くことが出来た」という話をよく聞くが、これはまさしく無駄を生かすことの代表であろう。

物事において、無駄を許すような余裕を作ることは重要である。旅行においても、スケジュールをぎゅうぎゅうに詰め込んで各地を見て回っても、そこから得られるものは少ない。余裕を持って観光した方が様々なものを感じることが出来る。学問においても同じである。大局的に対象を俯瞰できる余裕を作らないと、新たな発想は浮かんでこない。学問は受験勉強ではないのである。受験勉強的な効率的スタンスで学問に取り組んでも、そこからは想定内の事しか出来上がらないだろう。

ただ無駄とは言っても、怠ける事とは全く違う。無駄や余裕を作ってクールダウンする時間が必要なのである。数学においても、計算に没頭していると、目の前の数式しか見えなくなることがある。そのような時に少し休み、全体を俯瞰する作業が必要なのである。

効率性によって成果を挙げようとするのは二流だと思う。一流は無駄や余裕をあえて作り、それによって限界を超えようとする人たちだと僕は思っている。

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