物理は数学を具現化している。

物理と言うものは、数式(数学)を用いて記述されている。なので物理を研究する時には、どの数学が使えるかと言うことが焦点になる。しかしこのような考えでは、物理が主で数学が従となる。このような意識は、物理の最も根本的な分野(素粒子論や超弦理論)においても同じである。しかし物理の最も根本的で本質的な部分を追究する時、果たしてこのような意識のままで良いのかと僕は疑問に思っている。

僕が最近感じているのは、数学を現実世界(自然宇宙)に具現化したものが物理ではないかと言うことである。すなわち、物理の本質を追究するためには、数学の根本的な部分、すなわち公理論的集合論や抽象位相論と言った部分を出発点に置かなければならないのではないかと僕は考えている。すなわち物理はまず数学ありきなのである。

物理(自然宇宙)がたまたま数学によって記述されていると言う認識は間違いだ。数学を具現化したものが物理なら、物理が数学によって記述されているのは当たり前の事である。現在物理の根本を追究する分野として、超弦理論などが活発に研究されている。しかし僕はこのような方向性では最終的な基礎にはたどり着けないのではと思っている。なぜなら非常に数学的だと言われている超弦理論と言えども、数学が従であることには変わりないからだ。

物理の中にも公理論的に構成する動きはある。例えば場の量子論にしても、公理論的場の理論と言う分野がある。とは言え、このような公理論的物理にしても数学的に見ればまだまだ基礎的だとは言えない。数学が使える数学的な物理と言う意識から、完全に公理論的数学の具現化としての物理と言う意識を持つ事が、物理の根本的・本質的部分を追究するためには必要ではないだろうか。そしてこのような意識を持つ事は、物理から逆に数学の根本的原理を導き出すと言うことも可能になると僕は考えている。

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