社会のバランス

どのような集団でも、集団の規模が大きくなれば極端に偏った考えの人が増えてくるものだ。しかし偏っていると言っても皆が同じ方向に偏っているのではなくて、右に偏っている人もいれば左に偏っている人もいる。これらの両極端の人たちはシーソーの両端みたいなもので、全体を見てみるとシーソーはバランスが取れている。

社会的に危ないのは、その片方側だけを認めない風潮だ。ナチスドイツ、金朝鮮などがそうである。最近の韓国もそのようになりつつある。片方を否定することによって、シーソーは片方に傾く。国なら国家が傾く。相反する主張を認めない国家は、独裁色の強い国家になっていく。

そのようなことを防ぐためには、「多様性」を認めなければならない。多様性の重要性はいろいろなことに当てはまる。人間社会をはじめ、自然の動物の生態系、あるいは学問の世界でも多様な主張は必要かもしれない。多様性のある世界が健全なら、偏った世界はある意味病的と言える。

しかし、時には偏ることも必要なこともある。多様性を認めるということは言い換えると面積が広くなるということである。国家というような規模の大きい集団ならそれでいいが、規模の小さな集団では、広くなるということは同時に浅くなるということでもある。ですから、規模の小さな集団が特色、個性を際立たせるためには、偏る、あるいは狭い範囲に集中するということも必要だ。しかしターゲットを集中する場合でも、アンテナは広く向けていなければ知識までもが偏ってしまう。

政治の世界ではよく右だ左だと非難し合っている。非難し合うのは結構なことであり、このように左右が非難し合っているということは逆に言うと両者の存在を前提として認めているということなので、ある意味健全な状態だと言えるかもしれない。

これから先も右と左がけん制しあうことができる国家であり続けることを願っている。

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