「改善」という言葉がある。文字通り、物事を善くするために改めることだ。しかし改善したからと言って、必ずしも良くなるとは限らない。改善したつもりが、時には悪くなっていることもある。すなわち「改悪」だ。いま社会全体を見渡してみると、このような改悪に進んでいる事が多いように思える。そしてこのような「改悪問題」の解決を難しくしている理由は、当時者たちはそれを良かれと思ってしていることだ。
なぜ、改善が改悪になってしまうのか?それは、物事を画一的にしか捉えていないことが大きな理由だ。物事を局所的に画一的に捉えてしまうと、大域的にはどうしても不自然なところが出てきてしまう。すなわち、一部の人にとっては良くはなっているけど、その他の大勢の人にとってはかえって悪くなっているということだ。
数学で言うと、細かい厳密な計算にとらわれ、理論全体の姿を見失っている状態だと言える。逆に全体像が見えていると、部分の計算を見るまでもなく調和のとれた理論を構成することができる。意外と大風呂敷を広げられる人の方が、自然な理論を構成することができるものだ。
とは言え、数学なら計算をすれば間違っているかどうか厳密に確認できる。しかし社会問題となると、そうは簡単に検証できない。何年、何十年と実行して、それで不自然なところが大きく露呈して、初めて問題になる。しかし物事の本質的な問題点を捉えられる人にとっては、大概初めから問題点が見えているものだ。しかし日本は民主主義国家である。一言で言えば、多数決の社会だと言える。だから一部の人の意見が正しくても、多くの人がそれらの問題点が見えていなければ間違った方向へと突進してしまう。しかし、民主主義に変わる理想の社会像があるかと言われれば、まだ答えを出し切れていない。もちろん、様々な理想像が提出されている。しかしどれも決定的だとは言えない。
世の中を良くしようと思って変えていることが社会を不自然にし、そこで暮らす人々を息苦しくしている。現代社会は「檻の中の自由」だとも言えないこともない。そしてそのような傾向はますます拍車がかかっている。もちろん、その根底にあるのは、高度な情報社会である。この社会の情報化は進むことがあっても退化することはない。なので、国をリードすべき政治家が強い基本的指針を持っていないと誤った方向へ進んでしまう。だからと言って、政治家だけが正しければいいかと言えばそうではない。我々一般市民にも正しい判断力を保持することが求められる。そのためにも、確固たる教養を持つことが必要なのではないだろうか。教養と実行力を持つことによって自分の道を切り開くことができるし、一億分の一の力によって国を動かせることができるのだ。