シリアで拘束されていたジャーナリストの安田純平氏が解放されて、しばらく経った。安田純平氏の拘束・解放に当たって日本国民として考える事、思うことはいろいろある。
まず重要な事は、安田氏は大手メディアの所属ではなくフリーのジャーナリストだということだ。紛争地で犠牲になるジャーナリストのほとんどはフリージャーナリストだ。これは何も大手メディアの危機管理がしっかりとしているという訳ではなく、むしろ大手ジャーナリストは危険地には入らず、身の危険がある取材はフリージャーナリストが一手に引き受けているという現実からだ。言い方を変えると、大手メディアは自分の手を汚さず、安全地帯でぬくぬくとしていると言える。
そして最も重要な事は、今回のような事案が発生すると日本国内で必ず発生する「自己責任論」だ。自己責任論を叫ぶ国民の言いようは一見理があるように思えるが、その根底には非常に危険な思想が横たわっている。はっきり言ってこのような事は思想と呼ぶに値しないものであるが。
日本では皆がしないことをする人に対しては非常に風当たりが強い。このことは何もジャーナリストに対してだけではない。科学研究でも同じだ。ある程度確立された分野内で、ある程度他人が行った研究を追従する。そして人がしないことをする人に対して「意味がない」「絶対にうまくいかない」と盲目的に批判する。そしてノーベル賞を取った途端に手のひら返しだ。
もし皆がしないことを誰もしなくなったらどうなるのか?そのような世界に持続的な発展はない。このことが最も顕著に表れているのが、FAGA(Facebook、Apple、Google、Amazon)が支配する現在の社会構造だろう。このような社会構造に日本が乗り遅れたのは、何もITの重要性に気付かなかったからではない。皆のしないことをせずに他人の事を追従することしか考えない日本人的思考であると僕は考えている。これではもしITの次に来るパラダイムが訪れても日本はその主役にはなれないだろう。
少し話はずれたが、安田氏への自己責任論的批判には、誰もしないことへの批判に対する構造的問題が存在する。そして言うまでもなく、自由への放棄でもある。ある記事でこのようなことが書かれていた。「この国にはハロウィーンでバカ騒ぎする自由はあるが、真の言論の自由度はすこぶる低い。」(プレジデントオンライン・元木昌彦氏の記事)。
一体この国にある自由とは何なのだろうか?確かに日本という国は世界的に見れば自由な国である。国家システム的な視点から見れば自由かもしれない。しかし問題は社会的思想から見た自由である。今回の安田氏の解放に対して政府が自己責任論を言っている訳ではない。国に自己責任論などという法律はどこにもないのに、多くの国民が自ら自己責任論を主張している。僕はそのような社会的思想は国民が自らの首を絞めつける行為だと考えている。自己責任論を叫んでいる人たちは、「自分はそんなことをしない。だから自分には関係ない」とでも思っているのかもしれない。しかし社会的思想はあらゆるところで繋がっている。今回の安田氏の行動は、我々市民の生活に密接に関係していることだと気付かなければならない。
多くの日本人が自ら自由を放棄し、自らの首を絞めつけようとしている。そのような国の50年後、100年後にどのような自由が確保できているか?はっきり言って見通しは暗いものだと言わざるを得ない。