現在、地球温暖化が世界で大きな問題になっている。そこでよく言われているのが、地球温暖化問題は科学か?宗教か?と言うことである。実は地球温暖化を厳密に分析することは非常に難しい。あるモデルに則って論じても、不確定要素、想定外要素が沢山あるからである。言ってしまえば、出たとこ勝負であると言うことである。何十年後に何度上がると計算で出ても、果たしてその通りになるかどうかは科学者も分からない。そうなると、科学的にどうなるか?と言うことではなく、そうなることを信じるかどうか?と言うことになる。つまり気候問題が宗教問題と化してしまうのである。
確かに、将来の気候問題を正確に論じることは誰もできないかもしれない。しかしだからと言って、気候問題を宗教問題にしてよいはずがない。厳密にその通りになる保証はないが、科学によって方向性はかなり正確に示すことができる。少なくとも、科学的に論じることは宗教的に論じるよりも数百倍マシなのである。
ガリレイやニュートンが現れる前、全ての事柄は宗教的に論じられていた。宗教が絶対であった時代なのである。そしてそのような時代に大きな迫害を受けたのが科学であった。物事を100%正しく論じることは非常に難しい。しかし宗教的に論じるよりは数百倍正確なのである。科学が70%正しいが、30%間違っている可能性があるからと言って、それを宗教的に論じてよいはずがない。気候問題は首尾一貫して科学的に論じるべきなのである。
そして一般市民が、科学的に正しいと言われているから盲目的に従うと言う姿勢をするのも間違っている。科学的に導き出された結果を市民も一緒になって考察すべきなのである。そのためにはある程度の教養が必用である。大学では最初の二年間教養課程として過ごす。なぜ大学に教養課程が必用なのか?専門の事だけを教えていれば良いと言う人も多い。しかし全ての物事を科学的、論理的に的確に論じるためには教養が必用なのである。そうでなければすぐに宗教的思考に走ってしまう。
宗教が全く必要ないと言うつもりはない。しかし科学的に論じるべきことを宗教問題にしてはならない。間違っても科学を宗教にしてはならないのである。最近では人間の心までが科学的研究の対象になっている。しかし、人間の心の拠り所が宗教であっても全然かまわない。しかし科学が宗教になってはならないのである。そのような事を、現在の地球温暖化問題が明確に示しているように思えてならない。