科学と哲学は、似ても似つかないものだと思っている人は多い。そもそも大学では科学は理系であり、哲学は文系となっている。しかしこのような理系と文系という区別をすること自体が明らかにおかしいのであって、そのような日本人のステレオタイプな見方は改めなければならないと強く感じている。
科学の中でも、理学系の基礎科学の人と、工学系の技術の人では、科学に対する捉え方が大きく違うように感じる。僕は、基礎科学と哲学は非常に共通するところが多いように感じている。実際僕は、科学と哲学を区別することはなく、科学も哲学であると思っている。ただ科学は対象が“自然”であるというそれだけの事である。哲学を追求することができなければ、自然を追求する科学はできない。
日本の哲学の中心地は、明らかに京都だ。西田幾多郎をはじめとする京都大学の京都学派の伝統は脈々と受け継がれている。京都には哲学の道と言われる通りもある。
哲学と双璧を成すように、基礎物理学の中心も京都である。言うまでもなく湯川秀樹からの伝統であるが、物理をやっている人にとって京都には一種の憧れがあるのかもしれない。また、京都大学には基礎物理学研究所というものもある。
京都という土地は、学問を醸成するにはよい環境なのだろうか?僕は京都に住んだことはないが、京都を訪れると何か独特の雰囲気を感じる。ただ訪れているだけなのに、京都学派の息づきを感じるのだ。
理系だとか文系だとか言って学問を強引に区別するのは明らかに間違っている。科学をするのに哲学的な思考が重要であるように、物事を大局的に捉えるためには分野の垣根を越えなければならない。近年は分野を細分化し、より専門家が進んでいるが、そのような流れは本来あるべき姿とは逆に流れているように強く感じる。