科学者が哲学を論じる時。

科学者と哲学者はやはり立っている基盤が違うようである。ショーペンハウアーの著書を読んでも、意識の問題が19世紀の科学や医学に基づいて論じられている。もちろん現代の眼で見れば、19世紀の科学は甚だ不完全である。しかし一部の哲学者は、科学を否定しながらも中途半端な科学に基づいて持論を正当化しようとしている。もちろん最新の科学に基づいて論じてみても、現在の最新の科学が完全である訳ではない。しかし哲学は完璧を求めている。しかし不完全な科学をついばんで論じた哲学に完全性を求めるのは無理な話だ。

もちろん過去の哲学が全く無意味な訳ではない。しかし全く無意味な哲学も存在する。それも偉人と言われるような哲学者による哲学でも、現在の眼で見れば無意味だと思われるものは多い。根幹的哲学で不変でありうるものはいつの時代でも受け継いでいかなければならないが、常に更新し続けて行かなければならない哲学(特に科学的見識を取り入れているもの)も多く存在する。

そこで哲学者による哲学だけではなく、科学者による哲学が今必要ではないかと強く感じる。これはいわゆる「科学哲学」というものではなく、「科学者の眼から見た哲学」という意味である。科学者が科学の世界だけで閉じるのではなく、積極的に哲学的な領域にも踏み込むことが必要である。

古代ギリシャ時代には、自然哲学者(科学者)が哲学を論じ、哲学者が数学を論じていた。しかし現在では科学と哲学はほぼ分業制になっており、古代ギリシャの精神は消え去っている。今一度、古代ギリシャ的精神を現代によみがえらせる必要があるのではないかと強く感じる。AIなどの科学技術が一般化する中で、人間が人間である所以は何なのか?そのような事を最新の科学の知見に基づいて深く論じることが非常に重要である。

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