僕が一番恐れていることは、肉体が死ぬことではなく、精神が死ぬことである。もちろん肉体が死ねば、精神が宿る脳も死ぬことになる。なので精神が生きているとは肉体が生きていることが前提になるのかもしれないが、肉体が生きていても精神が死んでいることはよくある。しかし肉体が生きている限り、精神も活発に生きていなければならない。
しかしこのような考えは、僕個人の単なる思想に過ぎないのかもしれない。精神が死んでいようがそんなことはどうでもよいと思う人も世の中にはたくさんいる。むしろ精神が死んでいる方が楽かもしれない。楽して生きたければ自分の精神を殺せばよい。そのような人がいる一方、絶対に精神を殺せない人もいる。楽して生きたいとかそういう次元の話ではないのだ。自分という一人の人間の精神を発揮するために、苦しかろうが大変だろうがそのような道を自ら選択するのである。
精神は肉体に付随する。しかし人間において精神は肉体の上位に位置する。このような位置関係は人間特有のものである。他の生物ではおそらく精神が肉体より上に来ることはないだろうし、そもそも精神というものがあるかどうかも分からない。つまり精神を生きさせるということは、自分が人間であるが故のことなのである。なので精神なんてどうでもよいという人は、もう人間とは呼べない。
人間の精神活動により科学は発達してきた。つまり科学とは人間が存在してのものである。しかし現代では人間が科学に支配されているように思えてならない。人間の精神も技術に支配監視されている。もし、「科学は何のためにあるのか?」と問われて「便利に、快適にするためにある」としか答えられない人はかなり危険である。そのような人は精神を失いかけている危険性がある。もしそのようにしか答えられないのならば、科学の本質について考え直し、それに伴う精神の重要性を認識する必要があると僕は強く感じる。