「引き際の美学」と言う言葉をよく使われる。まだ余力があるうちに引退しようと言う考えだ。もちろん、美学と言う言葉は様々な事柄に使われるが、学問を行う時、そして何かを行う時、果たして美学と言うものは本当に必要なのだろうか?
引き際の美学に関して言うと、僕自身は全く正反対の考えを持っている。やはりボロボロになるまで粘って、死に体になったときに引退すればよいと思っている。野球で言うところの生涯打率とか生涯防御率などの数字には全くこだわらない。もちろん引退を引き延ばせば、生涯打率はどうしても低下してしまう。しかし積み重ねたヒットの数は絶対に減らないし、長くやれば絶対に一本二本と増えいて行く。イチローの打率は凄まじいものであるが、しかしイチロー自身は常に打率よりもヒットの数にこだわっていた。それは上に書いたような理由からであろうと考えられる。
話を学問に戻すと、数学や物理学の理論には美の基準と言うものが存在する。どのようにするか迷ったとき、多くの学者は美しい方に進む。その最たる例が物理学者アインシュタインであって、彼は常に美と言う観点から理論を構築していったと言われている。一般相対性理論などは非常に複雑な計算の基に成っているが、しかしその完成された姿を見ると非常に美しい形をしている。ここで言う美しい理論とは、不自然なところがなくシンプルだと言うことである。このように、理論系の科学の多くには絶対的に美の観点が必要である。ある意味、美的センスが科学者としてのセンスに直結すると言ってよい。
物事を二者択一で考える人は多いが、僕はそれは多くの場合間違っていると考えている。多くの場合、どちらか一方にこだわるのではなく臨機応変に使い分けて行くことが必要なのである。美的観点が重要な事には美的感覚でとらえ、美など必要ないことに関してはなりふり構わずどんどん進んで行けばよい。しかし美を無視するにしても、そのような判断をするためには美的感覚と言うものは必要になってくる。なので美学を自分の中に持つと言うことは、非常に重要な事なのである。