羽生善治九段は何を見ているのか?

前年末の竜王位陥落によって、羽生善治氏は無冠になった。とは言え、無冠になったから羽生氏は衰えたのかというと、決してそうではない。無冠になった今でも羽生氏は最高位の棋士の一人であることは間違いない。

最近、羽生善治氏のことが書かれた記事をいろいろ見て、少し思うところがあった。それは「羽生善治氏は将棋に何を見ているか?」ということだ。普通の棋士だと対局に勝つことに最大限の気力を注ぐだろう。それは羽生氏だって例外ではないと思う。しかし羽生氏は必ずしも勝利だけを見ているようではない。将棋の盤上に何かの世界を見ようとしているように思えてならないのだ。

将棋には最善手という概念がある。言葉通り、最も有利になる手の事である。当たり前の事であるが、最善手を指し続けることにより勝利が見えてくる。逆にミスは命取りになる。しかし羽生氏は最善手ではなく“実験手”を打つことがあるという。将来の可能性を探り広げるために、実験手を打ち新たな道を開拓するのだ。とは言え、実験手は確率的に言えば最善手ではないのかもしれないが、将来の可能性まで考えると羽生氏における、あるいは将棋界における最善手なのかもしれない。

話しを、羽生氏は何を見ているかということに戻そう。なぜ僕が羽生氏の見ている世界に興味があるのか?それは世界を見るということは、あらゆるプロ分野において言えることではないかと感じるからである。物理や数学においても、ただ計算しているだけではなく、構想と一連の計算による構築によってその人独自の世界が見えてくるからである。それは視覚的に見えるという意味もあるし、精神的に見えるという意味もある。そうだからこそ、トップ棋士の羽生氏には盤上にどのような世界が見えているのかが気になるのである。

もしかしたら、プロとアマチュアの違いは、そのような世界が見えるかどうかということなのかもしれない。おそらく世の中にあるほとんどのプロには、“視覚的”に世界が見えているのである。世界が見えると哲学が生まれ、ただ勝利する、あるいは結果を出すというだけでなく、その先にある広大な大地を切り開くことが出来るのであろう。

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