今、京大数理研の望月新一教授によるabc予想解決が話題になっているが、望月教授と言えば16歳でプリンストン大学に入学したことが有名だ。しかしこのこと(飛び級入学)がことさら話題になるのは、望月教授にとっても心外ではないだろうか?なぜなら、数学の難問を解決することと学歴は次元と問題が違いすぎることであり、学歴がすごいなどと言うことは、はっきり言って一流数学者に対して非常に失礼な話だ。そんなことを言うくらいなら、abc予想の定義一つでも理解した方がはるかに望月教授に対する敬意になる。
そもそも、なぜ多くの人は大学に行くのか?それは学歴を付けるためなのか?もちろん多くの人にとってはそうかもしれない。学歴を付けて就職を有利に進めることが目的かもしれない。ならば、大学の勉強は単位が取れればそれでよいのか?優をいくつもそろえることが目的なのか?もちろん、頑張って優を獲得することは非常に素晴らしいことである。しかし、大学は就職予備校ではない。いや、現実問題として就職予備校化している大学は沢山あるし、大学でも就職支援に対して非常に力を入れているところは多い。それは社会的に見れば道理に合ったことであり、むしろ歓迎されるべきことなのかもしれない。しかし僕はそのような現状に非常に悲しくなるのである。
僕自身、大学時代の生活はとても自慢できたものではなかった。学生時代に調子を崩し、思うように勉強・研究ができなかった。それは大学院に入ってからもそうである。だから成績も全然良くはなかった。しかし数学と物理に対する意欲は人一倍持ち続けてきた。学生時代は、調子が悪くても休日も学生室・院生室に通い続け、研究に取り組んできた。若くして結果を出すことには憧れてはいたが、とてもじゃないがそういう状態ではなかった。
しかしだからと言って、今全ての事に対してあきらめるなんてことは全くあり得ない。若くして出した結果も年老いて出した結果も、出した時の年齢による優劣などは全くない。もちろん将来性などを考える人もいるが、人間は意欲を持ち続ける限り、死ぬまで成長・発展し続けることができると僕は考えている。おそらく多くの人はそのような考えに反対するかもしれない。だから僕自身がそれを実行して、成し遂げて示さなければならないと思っている。
完成された人間と言うものは、死ぬ直前でなければならない。いや、死に床にあっても発展し続け未完成なのかもしれない。ピークが20代の頃だったなどと言う人の言っている意味が僕には全く理解できない。そういう僕は、とんでもない変人なのだろうか?