重箱の隅から本質が見えることがある。

傍から他人のしていることを見ると、どう見ても重箱の隅を突いているようにしか見えないことが多々ある。しかし自分が実際にその問題に取り組んでみると、それまで重箱の隅のように思えていた事が、実は本質的な事であったことに気づくことがある。特に数学においてはそのような事が顕著に表れる。単なる重箱の隅ではなく、いかにして本質的な重箱の隅に取り組むかが大事なのである。

数学においては、99%出来上がっているのに残りの1%がどうしても解決しないと言うことがよくある。多くの数学の大問題も、現在そのような状況である。残りの1%に労力の99%を注ぎ込まざるを得ないことはよくあることだ。特に数学理論においては、論理的に100%完璧であることが求められる。1%でも隙があれば、それは定理としては認められず「予想」として取り扱われる。実はこの1%と言うものが曲者である。「99%上手くいっているのだから、それは正しいに間違いない」と言いたいところだが、しかしその残りの1%に大どんでん返しが潜んでいるのである。なので1%と言えども、それが全てと言っても過言ではないくらいだ。

しかしこれは数学に特有のことかもしれない。他の学問においては、1%不都合な事があっても99%上手くいっていればそれは正しいものだと見なされることが少なくない。いやほとんどにおいてそうである。それどころか、49%不都合であっても51%上手くいっていればその理論は認められるかもしれない。しかし数学においては100%が求められるのである。「あと1%」ではない。「残りの1%が全て」なのである。

最近あらゆる学問が面白い。僕は数理物理が専門であるが、そのような科学研究者にとって社会学や歴史学、あるいは文学は不必要なのか?いや、僕は全く違うと考えている。自分の専門分野と言うタコつぼに閉じこもるのではなく、あらゆる分野の知見を身に付けることは非常に重要である。なぜなら科学者である前に人間であるからだ。なので人間活動に付随する出来事には常に感覚を研ぎ澄ませていなければならない。確かに理論研究者が実験をすることはほぼ不可能であろう。ならば理論で出来る事だけでもやればよい。それだけでも手に余るくらいの多くの分野があるだろう。もし自分が理論研究者と名乗るのならば、理論分野のあらゆることに対して深い知見を持っていなければならない。

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