もう一度、蓮舫氏の「2位じゃダメなんですか?」発言を考える。

十年ほど前の民主党政権下での事業仕分けで、蓮舫氏が京コンピューター建設に際して「2位じゃダメなんですか?」と発言したことは余りにも有名だ。この蓮舫氏の発言によって、科学と言うものは1位じゃないと何の価値もないことが広く認識されることとなった。僕のブログでも以前、この蓮舫氏の発言を取り上げたことがある。しかし今考えると、この蓮舫氏の発言はもっと深い意味があるのではないかと最近感じている。

確かに科学と言うものは、1位じゃないと何の価値もない。例え小さい結果であってもそこに1位であることが求められる。しかし「京」のようなスーパーコンピューターは科学であると同時に「道具」でもある。いや、道具であることの比重の方が圧倒的に大きい。そう考えると、道具に対して1位を求めることは本当に正しいのか?とも思える。例え単位時間当たりの演算回数が圧倒的であってもそれは単なるスペックであって、それが本当に道具として優秀かどうか?と言う話とは別問題だ。例えばスマホで言うと、メモリやストレージが何ギガだとか、CPUのスペックがどうか?と言う話と、実際にそれが本当に使いやすいか?と言う話はそれぞれ無関係ではないが、完全に相関関係があるわけではない。中にはどんなに高スペックのアンドロイドよりもiPhoneの方がいいと言う人も少なくないであろう。

京コンピューターはスペックに過度にこだわるあまり、非常にマニアックなものとなり使い辛いものだったと言う意見が多かったと言う。それの反省を生かして、二代目スパコンの「富岳」はスペックよりも使いやすさに重点を置いたと言う(そうは言ってもスペックも世界トップクラスだ)。今蓮舫氏の発言を考え直すと、コンピューターと言うものは道具なのだから2位でも良いではないかと言う提言だと捉えることもできる。しかし当時は科学としての側面ばかり焦点を当てられたがために、スペックが1位であることにこだわり続けられた。ある意味、二代目スパコン「富岳」の汎用性は蓮舫発言の結晶だと言える。

しかし社会では全く逆の発想が染みついている。「役に立つ」とことばかりに重点が置かれ、「科学の真の価値」が無視されている。例えば学校でも、「数学なんかやっても何の役にも立たない」と言う主張も根強くある。しかし数学と言うものは極論を言うと、物事の本質を極限まで追求する学問だと言える。そして役に立つかどうかと言う事に対しても、自分の命を左右するくらい重要なものであると僕は考えている。その理由を挙げると、現在のコロナ禍において「ワクチンを接種するかどうか?」と言う事が関心事になっているが、確率(数学)をしっかり理解できないとリスクの評価(副反応のリスクとワクチン接種による感染防止のメリットの評価)に対して判断を下すことができず、最終的に自分の命の行方まで左右されることになる。

「科学」と「科学技術」の違いを明確に認識することは非常に重要な事である。科学は1位でないと意味がないが、科学技術は必ずしも1位でなくても良い。それよりも道具としての使いやすさやどれだけ役に立つかと言う事が非常に重要になってくる。しかし少なくとも日本においては、科学と科学技術の違いについて教育や言及されることはほとんどない。なのでほとんどの人が科学と科学技術を同一視している。蓮舫氏の発言はそのような現状に一石を投じるものではないだろうか?

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