データを活用するか?データに依存するか?

近年、ますますデータの重要性が高まっている。特にビッグデータと言われる種類のものが様々な分野で活用され、またそのようなデータが高額で取引されているようである。これらのデータは全体の傾向を把握するのには向いているが、個人にとってこれらのデータとどう向き合うべきなのか?と考えさせられる。

僕自身はデータ万能主義には異を唱えている。とは言え、データの有用性を否定する訳ではない。データは確かに強力な武器である。ビジネスからスポーツまで、近年はデータが強力に威力を発揮している。だからデータが威力を発揮するところでは積極的にデータを活用すべきだと思う。

しかし個人が生きる上で、データをどれくらい活用すべきなのか?非常に考えさせられる。結論から言うと、「データを活用するのは良いが、データに依存すべきでない」ということだ。そして、データは必ずしも万能ではないということだ。もしデータが示唆することが100%正しければ、人間は何もしなくて良い。データに盲目的に従っていけばよいだけの話である。しかしこうは問屋が卸さない。データが完璧でも、データを解釈するのは人間である。もちろん最近は、AIによる医療画像診断などコンピューターが解釈しだしている。そういうことならデータを集めそれをコンピューターに診断してもらえば、それに盲目的に従えばよいのか?いや、必ずしもそうではない。そこに人間が生きるということの深さがある。

人間には自由意思がある。この自由意思というものを巡っても最近は議論があるようだが、少なくとも現時点では人間の自由意思を尊重すべきだと考えて良いだろう。自由意思が自由であるためには、データに盲目的にはなるべきではない。もちろんある程度活用するのは良いとは思うが、自分の内部で思考し出した結果が自由意思である。データに依存し自由意思を無くした人間は人間と言えるのか?僕はもうそれは人間ではないと考えている。例え人間だとしても、精神的には奴隷である。もちろん、何も考えないで楽に生きたいと考える人がいれば、奴隷になるのも一つの手かもしれない。しかし自分の意志に従って前に進もうとしている人は奴隷になるべきではない。これから人間はこう二極化してくるのではないだろうか?

データは万能ではない。いや、もしかしたら万能に近いこともあるだろうが、万能だからと言ってそれが即データに従うべきかと言えばそうではない。我々は人間である。自分が人間としてどう生きるべきか?以前ならそんなことを考えなくても人間らしく生きる事は出来たが、コンピューター解析が異常に発達したデータ万能社会においては、そのような事を真剣に考えて生きて行かなければ、人間性を失ってしまうことになる。

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