単純”多数決的”主義を見直す。民が主役(つまり本来の民主主義)である再挑戦推進国家になることを目指してほしい。

昨年一年間、世界で、多数決的万能民主主義が様々な波紋を起こした。その最たるものが、イギリスのEU離脱、そしてトランプ氏の大統領当選であろう。

イギリスEU離脱もトランプ政権も、まだスタートしていないので、現時点で何とも言えないところであるが、双方とも大きな不安を伴っている。イギリスEU離脱の国民投票は、いかにも多数決的民主主義発祥の地の文化的側面が出た形であるが、投票確定後に後悔の念がイギリス国民を覆っているのを見ると、はたしてこの多数決による判断は正しかったのかと首をひねる。

イギリスEU離脱投票も、アメリカ大統領選も、(アメリカ大統領選は選挙人争奪という違いはあるが)どちらも基本的には少しでも上回った方が全てを取るというものだ。それから当たり前の話かもしれないが、どの国民も等しく一人一票である。

最近、グローバルに格差社会が問題になり、極度の平等主義が叫ばれている。確かに平等主義は非常に重要だが、平等にしなければいけないのは機会の平等であって、結果の平等ではない。結果に格差をつけてこそ、社会、そして科学の発展が生まれる。結果まで平等にしてしまえば、それこそ共産主義そのものである。

そして、再挑戦の機会を与えることも必要である。あまり好きな言葉ではないが、「敗者復活戦」とでも言うべきであろうか。

日本の社会は、学生時代からレールが引かれており、就職、昇進、定年退職まで基本的にはレールからはみ出ないように進んでいくようなシステムになっている。一度レールからはみ出た人間に対する偏見も非常に大きく、再びチャンスを得るのも非常に難しい。

よく社会の指標に「失業率」というものが取り上げられる。その話になると、失業率の数字ばかりが独り歩きするが、僕はこの数字以上に再挑戦のチャンスのなさの方がはるかに深刻な問題ではないかと思う。

失敗というのは、人間の成長にとって非常に大きな糧になるが、日本では「失敗=悪」ととらえられる風潮がある。就職においては、いかに人生経験をものにしてきたかということよりも、履歴書に空白がないかどうかに注目が移る。

その結果どうなるかというと、失敗の危険性がある挑戦をしないようになる。皆横並びに同じことをして、同じように進む。進んでいればまだいい方だが、停滞してしまっていることもよくある。

民主主義の話からそれてしまったが、民主主義とは言葉通り、民が主役なのである。主役は大いに挑戦して、有形無形のものを獲得していけばいい。そして失敗したら再び這い上がってまた挑戦すればよい。失敗回数に限度はない。百回失敗して、それで得た経験をもとに百一回目で成功を掴めばよい。

現在の日本に対して僕が不満をぶつけようとは思わないが、ただ一つ願っていることは「再挑戦推進国家」になってほしいということである。

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