学問に対する意欲

150年前の江戸時代まで、学問を志す者は藩校、あるいは私塾に志願し学問に打ち込んでいた。しかし家の事情、または身分の問題で学問に打ち込みたくても打ち込めない人がたくさんいた。学問は贅沢な取り組みであったのかもしれない。

今はどうか。勉強が嫌いだからと言って学問を避けている人はかなり多い。そのような人にとって学問は苦痛なのであろう。今は学問に打ち込みたい青年がいれば、打ち込める環境はかなり整っている。しかしこのように学問を自ら避けている人が多い。

なぜ学問を苦痛に思う人が多いのか。理由の一つは義務教育にあるのではないかと思う。本来は学問は自らが志し、自ら志願して取り組むべきものだ。しかし現在は義務教育のもと、6歳になれば嫌でも学校に入れられ、学問を受けることが「義務」になっている。はたしてそれでいいのか。学問が義務になっていることが学問嫌いの大量生産のもとになってはいないだろうか。学問に取り組む「自由」は必要だ。しかしそれを義務にするのは違うように思う。

もちろん義務教育を行うことによって、国民の教育レベルは非常に高いものになっている。読み書き計算など、日常生活において必要なものはやはり義務教育で身に付けるべきであろう。大学全入時代というのも、考えようによっては学問を志す者は誰でも学問に取り組めるということでいいことかもしれない。しかしその全入の実態と言えば、学問嫌いが大卒という肩書をつけるためだけに入学し、4年間遊んで卒業するというものである。もちろん皆が皆そうではない。真剣に学問に取り組んでいる学生の方が多いかもしれない。大学は最高学府に見合うような存在であらなければならない。

意欲あふれる若者が一人でも多く学問を志し、自ら動いて学問に取り組んでくれることを望むばかりである。

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