社会的に汚い存在ということと、人間的に汚いということは、全く違う。

社会的評価というものは、自分の意図しないところで作られることが多い。いくら品行良く生きていても、周りの評価はそれに比例しない。最近、投資家の村上世彰氏を見ていてそう思った。

社会的評価と人間性は別物だ。村上世彰氏や、あるいはホリエモンもそうかもしれない。社会的立場にある人間は、表舞台にさらされている分、一挙手一投足によって社会的評価が左右される。時には前衛的でありすぎるが故に、刑務所に入れられてしまうことがある。本人は潔白であっても、社会的には汚い存在とされてしまう。

社会的評価というものは、社会の気まぐれであるので、社会的評価を気にしすぎる必要はない。別に社会的に汚い人間でもいいではないかと思う。自分が一人の人間として信じる道を歩けばいい。周りは周り、自分は自分と思えばいい。社会的評価を気にしすぎると、自分を縛り付けてしまうだけだ。

周りから汚いと思われようがどうでもいい。むしろある程度汚い方が生きやすいし、潔癖な人間よりもむしろ健全かもしれない。周りに合わせるのではなく、前衛的に道を切り開くことが大事だ。自分に自信を持って、信じる道を貫くことが大事だ。

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