計算と論理構造。

論理構造を理解するためには計算が必要だが、逆に計算をすれば論理構造が理解できる訳ではない。細部を確認するには計算が非常に有効だが、論理構造を理解するためには大局的に見渡すことが必要であり、大局的構造の確認と細部の積み重ねの確認の双方を融合させることによって論理構造が理解できる。

数学や科学、そして社会においてよく見られるのが、極度の計算依存によって計算万能主義に陥ることだ。なぜ計算を行うのかという目的を考えた時、計算によって数値を出すこと以上に、計算の結果次の計算をどうすればよいかという進路を見つけ出すという意味合いが非常に重要だ。計算によって出した数値自体は数値以上のものではなく、その数値をどう解釈し次につなげるかということが重要なのである。

視野が狭いと、どうしても目の前の計算の沼地にはまってしまう。計算は集合をなし、構造を成している。その計算のなす構造を理解することが論理構造を理解するということなのである。家の建築設計をする時に、トイレだけを入念に設計しても全く成り立たない。一つの部屋だけを設計しても成り立たない。リビング、和室、トイレ、風呂を全て一つの設計の中に組み込んで“家”というものが成り立つのである。

家を建てようと思っている人がトイレ設計のスペシャリストになっても何もできない。もちろんスペシャリストにはスペシャリストの居場所があり意味があるのだろうが、全体を見渡して設計できるジェネラリストにならなければならない。しかしそのジェネラリストは家全体を見渡せるスペシャリストだとも言える。

世の中には細分化された仕切りの中のスペシャリストが多すぎる。しかし本当に重要なのは、全体の論理構造を理解できるジェネラリスト的なスペシャリストなのである。ミクロな計算だけではなく、マクロな計算ができるジェネラリスト的スペシャリストになり、全ての論理構造を見渡せる大局的な眼を持つことが必要である。

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