日別アーカイブ: 2015年2月21日

体罰教師の問題

いつも忘れたころに流れてくるニュースの一つに「体罰教師」の問題がある。最近は過去に二度体罰を注意された教師が三度目の体罰事件を起こしたというものがあった。いくら重大な事故につながっていないとはいえ、このような体罰中毒者のような累犯者を野放しにしていていいのか。

体罰によって従わせようという行為は、自分の教育力に自信がない証拠だ。百歩譲って体罰を行うとしても、相手が納得するようなものでなければならない。

体罰教師はもはや教育者とは言えない。そんな体罰教師を許す管理者も同犯だ。

体罰教師の起こす事件は、以前の韓国の航空会社の女副社長が犯したピーナッツ事件を思い起こさせる。この事件では乗り組み責任者には全く非はなかったが、仮に非があったとしてもそれに激怒し叱責し航空機の針路を変えた女副社長の方が比較できないくらい大きな罪がある。

体罰も同じである。生徒に非があっても、それを体罰によって叱責する教師の方がはるかに大きな罪がある。体罰は罪である。しかし体罰教師はその体罰を罪と思っていないどころか正義だと思っている。あるいは自分の感情をむやみにさらけ出しているだけかもしれない。そうだとしたら大人ではなく幼稚園レベルである。

20年くらい前までは体罰は日常的に行われていた。そういう意味ではまだ社会は未熟だったのかもしれない。しかしその体罰を指導の一手段として容認されていた時代にも、三つのタイプの教師がいた。生徒のことを親身に思って最終的に体罰を行っていた教師、仕事の一業務として自動的に体罰を行っていた教師、単に感情をあらわに出して発散しているだけの教師。今残っている体罰教師は三つ目のタイプであろうと思う。この様な教師は教師としてどころか大人として失格である。こんな失格人間に指導される生徒は悲惨なものである。

もし体罰教師が校内でしていることを校外でしたらどうなるかと考えると、体罰の罪の重さがわかる。まず間違いなく逮捕されるであろう。刑務所行きかもしれない。

学校は体罰教師の楽園だったのか。学校は教師の給与獲得の手段のためにあるのか。そんなことは明らかに間違っている。体罰教師、そして給与獲得手段と思っている無気力教師にはすぐにも校内から去ってもらいたいものである。