月別アーカイブ: 6月 2017

恩師への想い。

僕には一人だけ、恩師と言える人がいる。大学時代にお世話になった先生(教授)だ。

僕は大学時代、調子を大きく崩した時があり、思うようにいかなかったときに、その先生は何も言わずに僕の好きなようにさせてくれた。研究室に勝手に入り込んで休んでいたことも、日常茶飯事であった。

先生とは専門は少し違うのだが、先生の研究をする姿を見て、研究の現場というものを間近で感じることができた。

その恩師も、今では退官されて、名誉教授になられている。

僕の学生時代はまだ中堅の研究者であった先生も、今ではお歳を取られていると感じると、今まで何も恩返しができていないことがすごく悔しい。

早く結果を出して、先生に報告するのが一番の恩返しだと思っている。そのためにも一刻も早く結果を出さなければと焦っている次第である。

早く胸を張って先生に会いたい!

孤独を愛する。

最近は、友達の多さが充実した生活につながると言った意見をよく聞く。

しかし、四六時中SNSなどでつながっているのもどうかと思うし、独りでいるのが好きな人もいる。そんな僕も、独りでいるのが大好きだ。孤独が好きなのだ。

とは言っても、僕は人と話すのは大好きだし、電話でよく友人と話もするし、友達がいること自体は凄く嬉しい。

孤独を愛することができることは、僕は強みだと思っている。少し前に流行った”何とか力”という言葉で言うなら、”孤独力”とでもいうところか。

飲み会でわいわい騒ぐのもいいが、カフェで独り読書にふけるのもいい。独り論文を熟読するのもいい。

大勢でいるのも楽しいけど、基本は独りでいたい。最近、孤独死を問題にする人が多いが、僕は孤独死っていうのはなかなか良いと思う。僕自身、人に見取られて死ぬより孤独死の方がいいと思っている。死んだ後の事なんかに何もこだわりを持っていない。

「孤独を愛する人間でいたい」と僕が言っても、おしゃべり大好きな僕を見て周りの人はあまり想像できないかもしれないが・・・

人生を危険にさらせ。

17日、AKB48の総選挙があった。その中であった、NMB48の須藤 凜々花さんの結婚発言が話題をさらった。個人的におめでとうと言いたい。

須藤凜々花さんは、地元関西のアイドルだが、「目標は哲学者になること」だというのが有名だそうだ。実際、哲学書も出されている。その本のタイトルが、今回のブログのタイトル「人生を危険にさらせ」だ。

この言葉、元はと言えば、哲学者ニーチェの言葉であるらしい。僕自身もニーチェは大好きなのだが、この言葉は知らなかった。しかしこの言葉、非常にニーチェらしい言葉である。

「人生を危険にさらせ」という言葉は、「現場に出ろ、大衆の前に姿を現せ」と言う意味なのかもしれない。あるいは「リスクを恐れるな」と言う意味かもしれない。

お金のギャンブルはとうてい推奨できないが、人生のギャンブルは積極的にやっていく方がいい。とは言っても、人生のギャンブルも一般には推奨すべきことではないのかもしれないが、夢を持ち、エキサイティングな人生を望むならば人生のギャンブルは必要不可欠だ。

間違っても、自分だけ安全な所に居ながら口だけを出すような人間にはなりたくない。

須藤さんが教えてくれた「人生を危険にさらせ」と言う言葉は、前に進むためのエネルギーをくれる言葉だ。

人生をどんどん危険にさらして、失敗を繰り返して、最後に自分が笑えばいい。人生を危険にさらさずに、失敗もしない人生に、僕は価値を感じない。

日本はどれだけ自由なのか?

日本における言論・行動などの自由度は高いのか、低いのか。

国際的な評価では、日本の自由度はあまり高くないと言うような報告を聞いたことがあるが、それでも自由度の低い国に比べれば、まだまだましなように思える。

現在、テロ対策法案が国会で審議されている。この法案が監視社会につながるのではという不安が主張されており、僕自身もその危険性は排除できないと思っている。この問題は、テロ対策のメリットと、自由の一部剥奪のデメリットとのバランスがどうなるのかということに尽きるのではないか。

少し話は変わるが、日本は非常に協調性を重んじる国だ。そのことに関しては、世界的に評価されている。しかしその協調性はしばしば”圧力”となって協調性からはみ出るものに対するバッシングとなる。この日本の高い協調性社会が、自由度の低さの元凶になっているように思える。

個人の力で生き抜こうとする人間にとっては、日本の社会は生きにくい国である。

渋い男に憧れる。

僕も今では40歳。いつの時代にも憧れる男性像はあるが、今、どんな男に憧れるかと聞かれれば、「渋い男」に憧れると言う。

若いジャニーズ系のイケメンアイドルは、確かにカッコいいとは思うが、この歳になって目指す男性像ではないし、最近は若いイケメンより良い歳の取り方をした渋男がいい。

具体的に名前を挙げると、俳優の佐藤浩市・同じく俳優の豊川悦志・政治学者で東大名誉教授のカン・サンジュン・iPS細胞の山中伸弥、これらのどの人も生き方も格好よく、人間もしっかりしており(と僕は感じるが)、そして仕事で実績をあげておられる。

この四人は皆僕よりも年上だが、皆生き生きとして渋い。若いイケメンとどちらが魅力的かと聞かれても、単純に比較できない(僕はこれらの渋いおじさんの方に魅力を感じるが)。

渋い男を目指すためには、外見も内面も磨かなければいけない。どれだけ近づけるか、それとも近寄れないのか、わからないが、僕自身は(勝手に)これらの渋い男を目指そうと思っている(少し人間のキャラクターが違う気もするが・・・)。

最近の安倍政権のおごり高ぶりは、安倍氏支持の僕からしても見るに堪えない。

最近の安倍政権のおごり高ぶりは、自民支持者にとっても見るに堪えないものになっている。

加計学園問題の内部調査の目的は、内部告発者探しとなっているとも言われ、法案はことごとく強行採決という状況だ。強行採決が通るのは数の論理である国会では当然とも言えるが、その責任は選挙で投票した国民にもある。

確かにこれまで日本国は安倍首相・安倍政権に何度となく救われた。特に対韓・対中関係ではむしろ、強権安倍政権によって国益の損失を最小限に抑えられたと僕は思っている。しかし最近の安倍政権周辺、そして安倍首相の答弁を見ていると、そろそろ安倍政権の終焉が近づいていると感じられてならない。

そこで問題になるのは、安倍氏に代わる政治家は存在するのか、という問題だ。この問題に対して、僕は石破茂氏に期待している。

僕は何度もこのブログでも書いているが、石破かぶれだ。石破茂氏には一国民として絶大な信頼を置いている。(僕と石破氏の間で利害関係はもちろん全くないし、接点もない。)しかし、現在の石破氏の状況は孤立している。石破派はわずか19人だ。現状では総理・総裁選には全く太刀打ちできない。辛抱の時だ。

しかし、石破茂氏は総理の器を持つ、現在最も総理にふさわしい人物だと思っている。石破氏の良いところは、何事にも慎重に物事を進めるところだと言える。慎重に物事の本質を見極めようとする。そして防衛に関しては、非常に考えが深い。これは東アジアの軍事状況が不安定な現在では、非常に重要なことである。

ここで断わっておくが、僕は絶対に自民党でなければダメだとは思っていない。民進党でも前原誠司氏(元外務大臣)のような将来有望な中堅政治家も存在する。あるいはたくさんいる若手の中には、器の大きい政治家が埋もれているかもしれない。石破氏には頑張ってもらいたいが、政党にこだわらずニューフェイスの若手政治家の活躍にはさらに期待したいところである。

存在そのものに価値がある、”岩波文庫”。

近年、出版不況と言われているが、今でも膨大な数の新刊本が出版されている。その新刊本のうち、読む価値のある本がどれだけあるかと言われれば、ほとんどない。

しかし、読む価値のある本が集められている文庫がある。岩波文庫である。

岩波文庫には、基本的に新刊本は(ほとんど)存在しない。過去の名著ばかりが集められているからだ。分野の幅もしっかりしている。僕が岩波文庫でお世話になっているのは、主に哲学書。ギリシャ・ローマ時代から、近世・近代ヨーロッパ哲学、そして京都学派を中心とする日本哲学。どれをとっても一冊を何度も繰り返し読むのに値する名著ばかりだ。

岩波文庫の存在は、日本の文化レベルの高さを表している。岩波文庫の存在そのものに価値があるのだ。

どの分野でもいい。岩波文庫の中の一冊を熟読するのは悪いことではない。

靴を磨くこと、心を磨くこと。

僕には大切にしている一足(一対?)のブーツがある。そのブーツを買ってからもう5年ほど経つが、メンテナンスを欠かさずしているせいか、年々艶が増してきている。二週間に一回のブーツの靴磨きが習慣になっている。

靴磨きというのは不思議なもので、磨いて艶が出てくると、心まで磨かれたような気になる。靴磨きというと作業のように考えている人もいるが、靴は「育てるもの」と教えられる。

靴磨きは男のたしなみとも言われる。なぜ靴磨きがたしなみなのか?それは実際に磨いてみないと感じられないだろう。ただ確実に言えることは、靴磨きの習慣は、自分が人ととして上に上がるきっかけを作ってくれる。靴磨きに対する心は、あらゆるものに対する心に通じるものがある。

靴磨きが与えてくれるもの、「物を大切にする心」「物を育てる心」「他人に対する自信」「他人に対する好感」そして「自分に対する自信」。

こんなことを言うと少し大げさかもしれないが、靴磨きをきっかけにして、心も磨くのもいいものだ。

僕はまだ本気で頑張れていない。

僕は常に頑張っている。でも”本気”で頑張っているか?と問われれば「本気では頑張れていない」と答えるしかない。まだまだ甘いのである。心の中では、本気で頑張ろう、と思っているが、本気で頑張るということはなかなかできる事ではない。

しかし、過去に一度だけ”本気で頑張った”と思えることがあった。十数年前の事である。それをやりきった時は「もし結果がダメでもこれだけやったんだから悔いはない」と本気で思った。結果は・・・成功した。やはり”本気”で頑張れたと胸を張れるくらい頑張った時には、結果は嘘をつかないのかもしれない。

今、僕は一つの目標に向かっている。いろいろ雑音もあって信念がぶれそうになるときもあるが、目標に向かって進んでいる。しかし”本気”と胸を張れるかと言われれば、胸を張れない自分がいる。

体力的・精神的・環境的な様々な要因はあって決して簡単ではないが、また「本気で頑張っている」と胸を張れるように本気で頑張ろう。

過度な対策ではなく、適切な予防を。

最近は情報過多の時代だ。テレビ番組一つとっても、膨大な量の情報が垂れ流されている。それを無意識に聞いていると、危険性を訴える情報に対してあらゆることに対策を講じなければならない。しかしこんなことをしていては、心と体がいくつあっても足らない。

日常を生きていくうえで、危険は数えきれないほど存在する。極端に言えば、今日、歩道を歩いていて車が飛び込んでくるかもしれない。しかしこのようなことに対してどう対策をすべきなのか。実際対策のしようがないだろう。

重要なのは、危険に対してその危険性の度合いを正しく把握することだ。危険性の低いことはあまり気にせずに軽く、危険性の大きなことはできるだけ念入りに対策を。

一番危険な考え方は、大きな危険も些細な危険も同列で考えて、同じレベルの対策をしようとすることだ。そんなことをしたら、非常に息苦しくなるだろう。

危険性に限らず、物事を冷静に評価する頭は非常に重要だ。そしてあまりに考え込むようだったら、起こったら起こった時の事、その時に悩めばいい、というのも一つの手だと思う。しかし悩み多き人にとっては、このように考え方の方向を変更するのは容易ではない。ただ、危険性に敏感になりすぎて、悩みの先取りをすることだけはやめよう。