月別アーカイブ: 4月 2018

次世代は三刀流がチャンスだ!

現在、大谷翔平選手の二刀流が話題になっている。そして学問の分野では学際分野という言葉が頻繁に使われ、二分野にまたがる勉強・研究が盛んだ。

二刀流を実行するのは容易ではないし、誰にでもできるものではない。しかし現在は二刀流はかなり市民権を得てきているように思える。

そこで次は三刀流がチャンスではないかと感じる。研究で言うと、三分野にまたがる研究ということだ。自分のテリトリーを三分野に持つ。これは二刀流以上に難しいとは思うが、インパクトは絶大である。

軸足を三つ持つことによって、他人には見えないことが見えるようになる。そして選択肢の幅も圧倒的に広くなるだろう。三分野融合、三刀流で挑戦するには、準備も人の三倍以上必要であるが、それを実行できる気力と能力があれば、そこへ突き進んでみるのも非常に面白い。

安倍強権政治の副作用。

18日、セクハラ疑惑の財務事務次官の辞任が決まった。財務次官のセクハラ疑惑に関しては誰が見ても弁解の余地がないものであり、次官、そして財務省・政府の見解は非常に首をかしげるものばかりだ。

今回の疑惑をはじめ、政府周辺では最近、立て続けに疑惑・騒動が起きている。これらの疑惑に関しては様々な原因があるだろうが、その中の大きな理由に安倍政権があまりにも強くなりすぎたということがあるだろう。

強い政府は何も悪いことばかりではない。特に対外的には政府が強いことはポジティブな面も強く、強い政府・安倍一強だからこそ成すことができたことも少なくはない。僕自身も、安倍首相本人に対してはそんなに否定的には思っていない。

しかし現在、安倍首相はあまりにも強くなりすぎてしまった。おそらく安倍首相周辺はイエスマンの集団になり、そして安倍首相側の人間は安倍首相を盾にして一方的な解釈をしている。僕にはそう思える。

このような、官僚などの安倍首相周辺の状況を見ると、安倍政権もそろそろ潮時ではないのかと感じる。新しいトップのもとに、政府周辺の意識を改革することが求められる。

今さえ良ければいいのか?

元首相・小泉純一郎氏の記事を読んだ。小泉氏は震災以来、原発ゼロを訴えていることで有名だ。原発ゼロに関しては僕自身も賛成であるが、小泉氏によると、原発をめぐる状況には様々なしがらみがあるようで、一言で原発ゼロと言ってもそれを遂行するのは容易くないようだ。

ただ、原発がなくても電力需要を満たすことができる事は、震災直後の原発不稼働時期に証明されている。だから物理的には今すぐにでも可能なのだ。

元首相である小泉氏の意見は、政治界、経済界を総合しての知見によるものであると感じている。その小泉氏が原発ゼロを訴えているということは、おそらくそれが可能であるということであろう。いや、それを可能にしなければならないのかもしれない。そのためには国民も無関係ではなく、今さえ良ければいいという考えを捨てて行動しなければならないのかもしれない。

基本的文献。

勉強や研究を行う時、全ての書物・論文が同じ比重であることはありえない。ある書物は何度も繰り返し読み込み、それ以外の書物は軽く流し読む程度であろう。その何度も繰り返し読み込む書物・論文が基本的文献と言えるかもしれない。

基本的文献は、軸足となる文献であらねばならない。従ってそれは、枝葉末節的なものではなく、非常に基礎的な文献である。何かにつまずいたとき、あるいは原点を確認したい時、その基本的文献に立ち返ることになる。

基本的文献は、分厚い書物であることもあろうし、短編の論文であることもあろう。分厚さは関係ないと言えるが、基本的文献は短編であるほうが便利だ。

基本的文献が定まっていないということは、目標が明確に定まっていないということだ。まず目標を定め、それを達成するにはどのような文献が必要か?それらの文献にいろいろと当たっていく中で、少数の基本的文献が定まるであろう。

誇示するための知識ではなく、中に秘めたる知識を。

なぜ知識を身に付けるのか?それは仕事で必要であったり、あるいは自分を高めるためであったりと様々であろう。知識はないよりもあったほうが良いし、知識を高めるのは自然な行動だ。

しかし、知識の使い道を誤ってはいけない。知識は決して誇示するためにあるのではない。誇示する程度の知識など、何の意味もない。知識は中に秘めてこそ価値があるのである。

最近、テレビで池上彰氏の解説番組をよく見るが、池上氏の中に秘めたる知識は相当なものだ。それは量的にも膨大であり、質的にも非常に高い。池上彰氏の有機的知識の活用と、それの伝え方には、舌を巻いてしまう。

では質の高い知識とは何か?それは単に用語や事柄を知っているだけではなく、あらゆることに有機的に結びつけることのできる知識だ。単独の暗記用語などは、単にアルファベットを覚えているのと変わりはない。歴史で言うと、単に年号と出来事を暗記しているだけではなく、歴史の流れの中でどのように位置づけられるか?あるいはそれをどう解釈できるか?ということである。

知識とは決して誇示する程度のものであってはならない。いかに知識を自分のものにし、自分を高め、あらゆることに活用できるかということにかかっている。

これまでの人間ではなく、いかにこれからの人間になるか。

いかにして過去を過去の事として切り捨てられるか。これができる人とできない人とに二つに分かれる。例えば、学歴とか過去の実績など、それを武器として渡り歩くのも一つの手かもしれないが、新しい未来を切り開くのに過去の事にこだわりすぎていては革新的な未来を築くのは難しい。

例え学歴や実績があっても、もし自分の現在の実力に自信があれば、学歴や実績などはちょっとした付属品程度に思える。逆に自分に自信がなければ、過度に学歴などに頼ることになり、そこから自信と実力のなさが暴露される。

過去にすがりこれまでの人間に終わるのか?それとも過去を切り捨て未来に懸け、これからの人間として歩んでいくのか?これから新たなる平野を切り開こうとする人間にとっては、過去にすがっている暇はないはずだ。

実力と努力と運。

大谷翔平選手を見て、この三つの事が頭に浮かんだ。大谷選手はこの三つ全てを持ち合わせている。

大谷選手の実力は誰も疑わないだろう。そして努力についても様々なメディアから伝えられている。そして運に関しては、多くの人が二刀流に懐疑的であった中、日本ハムファイターズに入団し、栗山監督という最大の理解者を得ることができた。そして現在、エンゼルスに入団したことも恐らく最適であったのだろう。

この運というものは、本当に運任せではない。運は自分が掴み取ることができるものだ。運を掴み取るのも実力のうちとよく言う。実力のない者は運をつかみ取れない。

実力と努力と運の三つを持ち合わせた人は多くないのかもしれない。しかしそれを初めから無理だと思う人は、持ち合わせていないという以前に、持ち合わせる資格がないと言える。自分は実力と努力と運を持ち合わせていると思い込み前に進める人が、この三つをつかみ取るチャンスを得られるのだろう。

個を磨く時代だ!

僕らが子供の頃は、集団の時代、協調の時代だった。もちろん今でも社会は集団であるし、協調性は非常に重要だ。

僕は今でも小学校の校長が言い放った言葉を覚えている。それは「社会の歯車になって」という言葉だ。今では信じられないことだが、何度もその言葉を言い放っていた。

現在はあらゆるところで多様化が進んでいる。多様化が進めばもちろん“個”が重要になる。即ち現在は個を磨く時代だと言える。

とは言っても、“人間”という言葉が示すように、「人の間」すなわち社会の中で生きていることには変わりない。ただ個の比重が大きくなっただけだと言える。

集団の中で威力を発揮する人間の個があり、個人プレーで威力を発揮する個もある。ただどちらにしても、他人と比べて可もなく不可もなくという状態では、これからの時代をリードしていくのは難しい。もちろん集団の中で埋もれて行くのなら問題はないのかもしれないが。

全ての人に対してではないが、個を尖らせてトップを目指すことが強く求められているような気がする。そう感じるのは僕だけではないはずだ。

「記憶にございません」は、せこい。

政治家への疑惑追及で定番の答弁となっている「記憶にございません」という言葉。この言葉は考えれば考えるほどせこい言葉であることに気付く。

この言葉の特徴は、「やっていません」とは言っていないところだ。記憶にございませんと否定して、もし本当であることが暴露されると「やっていたけど記憶にないだけだ」と言い逃れができる点だ。すなわち嘘は言っていないと。

政治家は非常に便利な言葉を開発したものだ。国会での疑惑の追及は「記憶にございません」のオンパレードだ。この言葉は本当に禁止用語にしてもらいたいくらいだ。

「記憶にございません」と弁明する政治家は、それだけで信用すべき価値のない人間である。

本当に良い物はシンプルだ。

「シンプル・イズ・ベスト」という言葉があるように、本当に良い物はシンプルである。例えば時計なども(もちろん好みにもよるが)シンプルな物の方が飽きが来なくて使い勝手が良い。

そして科学も例外ではない。大理論と呼ばれるものは、その芯は必ずシンプルだ。量子力学はシュレーディンガー方程式が全てだと言えるし、一般相対性理論はアインシュタイン方程式が全てだ。古典的進化論は自然淘汰が全てだと言えるし、iPS細胞は山中ファクターと呼ばれる4つの遺伝子が全てだと言える。

将棋や囲碁のルールは非常にシンプルだが、非常に奥が深いゲームでもある。スポーツで言えば、サッカーは非常にシンプルであるが故に、世界で最も広く親しまれている。世界一速い人間を決める100m走は、最もシンプルで最も注目を浴びるスポーツだと言えよう。

何かを極めようとするとき、二つの道がある。単純化と複雑化である。しかしより後世へ残るのは単純化されたものだと思う。ただしシンプルだからと言って簡単であるわけではない。シンプルな結果を出すまでの過程は、非常に難しく複雑である。その複雑で泥臭い過程を乗り越えてこそ、シンプルで良い物が構築される。