月別アーカイブ: 4月 2019

徹底的に構造論。

物事を考える時には、いろいろなアプローチがある。例えば物理理論では現象論だとか反応論などというものがあるが、自分がどのアプローチを取るかという事は重要であるし、それでいて一つのアプローチにこだわらずに広い視点を持つことが重要である。

僕が最近重点的に取り組んでいるのは、構造論的アプローチだ。物事の構造に焦点を当てたアプローチだが、ただ構造論と言っても分野ごとに内容は大きく異なる。20世紀の数学では、フランスを中心とした数学者集団ブルバキによって構造主義というものが推し進められたが、別にブルバキを意識したものではない。結果的に重なる所はあるかもしれないが、抽象代数学などに取り組めば構造論・構造主義という考えは自然と出て来る思想である。

目の前の問題しか眼中になく場当たりに取り組んで行くのは、構造主義とは対照的なアプローチであろう。一つの問題に取り組むに当たっても、構造論的に取り組めばより深い真理が見えてくるし、問題をより広く捉えることが出来る。構造論的なアプローチを徹底的に推し進めるのは、ある意味プロとしての本流であろう。それは何も学問に対してだけではなく、スポーツでもビジネスでも同じだと思う。場当たり的に対処すれば、その時には小さな解決に成功するかもしれないが、持続的な発展は望めない。

構造論を究めるためには、物事を論理的に捉える事が不可欠である。数学はそのような場の究極である。ブルバキ主義が意識されなくなった現代においても、ブルバキ的な構造主義は脈々と続いている。社会的な事においても、構造論的な視点から見てみると物事を大局的に捉えることが出来る。今何かに取り組んでいるのならば、構造論的な視点で見て基礎から構築して行くことは長い目で見れば得るところは非常に大きいと思われる。

空気を読みすぎない。

ある程度空気を読むことは物事を円滑に進める上で必要だが、過度に空気を読み過ぎるのはどうかと強く感じる。日本では空気を読むことはある程度素養として見られるところがあり、空気を読まない人は「空気を読めない奴」と言って非難の対象になる。空気を読み続けることによって大きなミスをなくすことはできるかもしれないが、その一方、それは大きな変革を起こさなければならない時には大きな妨げになる。

空気を読むことは、現状維持を目指すうえでは必要であるように思える。しかし、現状維持を目指して現状維持ができることはほとんどなく、現状維持の行きつく先はほとんどの場合没落である。そのような没落への道を避けるためにも、空気を破って現状打破をすることが必要である。

物事にはバランスが必要である。空気を読むことは一種のバランス構築技術と思うかもしれないが、空気を読み過ぎるというのもそれはそれで非常にバランスに欠ける事である。片方に偏り続けた一種の偏重バランスを崩すためには、空気を破ることが必要である。もし、現在何かに行き詰っているのならば、そこでこれまでの空気を読まずに破ることが必要である。

空気を読むことは一つのスキルと言える。しかし空気を読み過ぎないというのはさらに高度なスキルである。空気を破るべきところで破れるか?それは人間の度量に大きく関わってくることだと思う。没落への道を避けるためにも、時には空気を読まないという事が必要であり、覚悟を持って空気を破る必要がある。確かにこれまで空気を読み続けて切り抜けてきた人にとっては簡単な事ではない。しかしこれまで空気を読むスキルを身に付けて来て、そこにさらに空気を破る技術と覚悟を持つことが出来れば、人間としてもさらに一段上に上がれるはずだ。

感覚と論理。

感覚的な事と論理的な事は相反することのように思っている人もいるかもしれないが、感覚と論理はむしろ相補的、すなわち相補うような存在であると僕は考えている。物事を論理的に考えることは重要であるが、論理ばかりに目が行ってしまっていれば物事の本質を見失うことがある。重要なのは、論理からいかに感覚を掴むかということである。

ここで例を取り上げる。物理理論である電磁気学では、最も基礎となるマクスウェルの方程式と呼ばれる四つの方程式がある。そこではdiv、grad、rot、という三つの記号が出て来る。これらの記号は偏微分を使って数学的に厳密に表現することが出来る。しかしこれらの数式を覚えるだけではマクスウェル方程式の本質は掴めない。重要なのは、div(ダイバージェンス)を「発散」、grad(グラディエント)を「傾き」、rot(ローテーション)を「回転」と感覚的に捉える事である。この様に感覚的に捉えることが出来れば、後はそれらの感覚を基に容易に式変形が出来る。

日常では感覚は五感で捉えられることが多いが、数学や科学においては論理によって感覚を捉えるのである。論理と感覚を縦横無尽に使うことが出来れば、日常においても大きなスキルになるし、学問においては真の理解に結び付けることが出来、さらにそこから新し理論を構築することが出来るであろう。

地震学は真の科学になりえるか?

熊本地震から3年が経った。科学が発達した現在においても、大地震が発生するたびに毎度発せられるのが「想定外」という言葉だ。どこで地震が発生するのか全く予測がつかないのならいっそのこと地震予知など止めてしまえばとも思うが、その一方、地震予知への取り組みは地震学に対する最大の原動力にもなっているのでそう簡単な話ではない。

地震学は一応科学の一分野という事になっている。しかしどう考えても科学とは思えないような研究も存在する。というより、大地震が発生するたびに述べられる地震学者の見解は、どう考えても科学的とは思えないものが多い。その典型的な例が、「前回の地震から何十年経っているから、そろそろ起きる頃だ」というものだ。この様な見解は全く科学になっていない。これは科学ではなく、むしろ史学だ。このような史学的研究者は、百歩譲って地震学者だとしても、科学者とは名乗るべきではない。科学者から見ると、これは予測ではなくほとんど妄想と言って良い。もし本気で地震予知に力を入れるのならば、このような史学的な研究でなく、科学的メカニズムに則った研究に重点を置くべきだ。

もちろん、科学的に地震研究を行っている地震学者はたくさんいると思う。しかしメディアで取り上げられる地震学者の約半分は史学的だ。これにはメディア側にも責任があるのかもしれないが、一般市民ももっと科学的な地震学に興味を示すべきである。このような地震学に対する科学的理解があれば、防災効果は相乗効果で飛躍的に上がるはずだ。

僕は科学とは必ずしも日常に役立てるだけのものではないと思っているが、もし地震学を日常的に役立てたいと思うのならば、ただ単に起こるのかどうかという興味だけではなく、科学的な所からの根本的理解が必要だと思う。科学に対する実用的価値を過度に求めている割には、完全に重要な所が抜けているように思えてならない。

死なない事。

誰だって死にたくはないはずだ。しかし誰だって必ず死は訪れる。それが早いか遅いかというだけだ。そして死には二つある。「肉体の死」、そして「精神の死」だ。肉体の死は自分ではコントロールできない部分も多々ある。もちろん昨今は医療が非常に発達し、ちょっとやそっとでは死なないかもしれない。日本人の平均寿命も非常に高いレベルにある。なので普段はあまり(肉体の)死を意識することも少ないかもしれない。

問題は「精神の死」だ。精神の死はかなり自分でコントロールできる。しかし若くても精神が死んでいる人もいるし、年老いても精神が生き生きしている人もいる。何を持って精神の死と言うかは難しいが、精神が活発に生きているとはどういう事かとはいくつか言えることがある。一つは「挑戦し続けているか?」ということだ。全く挑戦することもなく保身の事ばかり考えている人は、完全に精神は死んでいる。人が100の窮地に立たされているのに、自分の1の利益を守るためにその人を助けない。そのような人はもう精神が死んでいるとさえ言えない。

その場では自分の利益を確保していると思っていても、人の犠牲の上に成り立つ利益は長く続かない。なぜなら周りの人はそれを見ているからだ。世間では「いかにリスクを取らずに利益を上げるか?」という事ばかり注視されいるが、ローリスクとは意外と割に合わないものだ。ローリスク・ローリターン、人生においてそれでいいと思う人はそれでいいが、人生とはリスクを取り続けて成長して行くものだと思う。すなわち、人生においてリスクを全く取らない人というのも精神が死んでいると言える。

精神的に生き続けて成長して行くためにも、絶対に肉体は死んではいけない。肉体的に生き続け、人間的にも成長し発展し続ける。死の直前まで精神的に発展し続ける人間になれるか?これは一人の人間として大きな挑戦だと思う。

安っぽい個性はいらない!

近年、日本でも徐々に集団主義から個人主義に変わって来ており、それに伴って「個性」と言う言葉が氾濫しつつある。それぞれが一人の人間として個性を出すことは非常に大事である。しかし世の中の多くの人は個性というものを履き違えているように思えてならない。

個性を出すと言えば、真っ先に服装の話が出てくる。確かに服装は一番目に映る所であり、ちょっとした変化でもわかりやすい。なので個性を出そうと思うと、服装で個性を出そうという人が多く出て来る。そこで奇抜な服装をしたり、派手なアクセサリーを付けたがるが、僕はそれが果たして個性なのか?と非常に疑問に思う。僕自身はこのような見かけだけの変化は個性でも何でもなく、例え個性だとしても非常に安っぽい個性に思えてならない。

僕が個性とはこうあるべきだと思うものを一文で表現するとこうだ。男なら「ビシッとジャストサイズのスーツを着て、人間の中身から深い個性を出す」、これぞ男の個性だと思う。女性なら、それは女性に考えてもらおう。個性とは外見から出すものではなく、人間の中身からにじみ出るものなのである。もちろん、身なりはきちんとしていた方が良い。そういう意味でビシッとジャストサイズのスーツを着るべきだ。もちろんスーツでなくても良い。仕事着ならそれでもいいし、ソフトカジュアルな服でもいいと思う。服装によってマイナスイメージが付くのは良くないが、服装は引き算で考えた方が良い。

そのようにビシッとスーツを着れば、後は自分の人間性の勝負である。それはただ単に性格的なものだけではない。仕事や人生において打ち込むべきにものに真剣に打ち込む姿、大きな飛躍を得るためにリスクを取る覚悟、楽な方に逃げないで厳しい選択肢を選択する判断、そのような人間性における総合力が個性となって表れるのである。

もちろん、外見で個性を出すことを否定するつもりはない。ただ外見で個性を出す場合、それなりのセンスが必要である。ただこれが簡単なものではない。方向性を間違ってしまうと安っぽい個性になってしまうのだ。

安っぽい個性しか出せない人は、安っぽい人間だと思われてしまう。個性の「個」は個人という意味である。すなわち個性とは人間に由来するものであって、物に由来するものではない。人間としての総合力を上げて強烈な個性を出すべきである。しかしこのような個性は一朝一夕では出来上がらない。これまで自分がどのように人生を歩んで来たかが魅力的な個性を身に付けられるかどうかに大きく関わってくる。

精神は自由で、行動には規律?

僕は人間には二つの自由が大事だと考えている。一つは精神の自由、もう一つは行動の自由だ。この二つの自由はそれぞれ独立しているものではなく、精神の自由は行動の自由を確保されてこそ成り立つものだと思う。従って、行動の自由を制限すれば、そこから精神の自由度も低くなってしまうことになる。

しかし、行動の自由を他人から侵されることは極力避けなければならないが、自分で自分の行動を律することはある程度必要だ。そうしないと、お酒を飲みだすと止めどもなく飲んでしまうことになるし、他人にも大きな迷惑を掛けてしまうことになる。そしてその先にあるのは自滅である。信念に基づく自由は大切だが、自由を逆手にとって暴挙に出てしまうことは避けなければならない。そのためには自分の行動にある程度規律を定めることが必要なのである。

ところが、この塩梅が難しい。自由と規律は言葉の意味で言えば相反するものであり、一方を重視すれば他方が軽視される。お酒を飲む自由は欲しいが、お酒に溺れるのは良くない。やはり事を成し遂げるためには、自由と規律を上手くコントロールすることが必要である。

僕自身も出来た人間ではないから、どうしても同じ失敗を繰り返してしまう。多くの失敗をすることは悪い事ではないが、同じ失敗を繰り返すのは考え物だ。しかし同じ失敗を繰り返す中でも、どこまでなら失敗せずに済み、どれ以上すれば失敗してしまうか?という線引きをどこですべきかという事がわかってくる。権利と義務がセットで語られるように、自由と規律もセットで語られるべきものかもしれない。結論を言うと、自由人であり続けるためには、自分を律することが必要だということだ。

基本的思考。

同じ人間の思考・思想がころころと変わることはありえないし、もしそんな人がいれば他人から全く信用されない。人間の基本的思考、すなわちその人の根本的な考えというものは人生を通じて大きくは変わることはないので、言い回しは変わっても言っていることの本質はほとんど変わらない。今日、記事を書こうと思って、何となく過去に書いたことのあるようなタイトルだったので念のためにブログ内検索をしてみると、案の定、過去に同じタイトルで記事を書いていた。同じタイトルでも記事内容は違うものになるのでそれでもいいかとは思ったが、そのタイトルで書くのはやめることにした。

基本的思考なんていう言葉があるのかどうかわからないが、人間にはそれぞれ芯となる部分がある(と思われる)ので、その芯となる部分にあたる思考・思想と言う意味で基本的思考という言葉を書くことにした。僕自身、常に不変な基本的思考というものは強くあり、表面的な所は変わっても、行動原理はその基本的思考にある。なので自分の行動パターンというのもは大概同じものになることが多い。別に意識はしていないが、自分の行動そのものがルーティンのようになっている。

そのようにルーティンというものは基本的思考から出て来るものだとは思うが、逆に意識的にルーティンを作り、思想を固めて行くというのもありだ。自分の目指すところがあるが今の自分にはまだ何か足りないところがある。そのような時、その足りないところを形作るためにルーティンを定め行動原理を作り、自分を高めて行くのだ。それが出来る人間はかなり強いと思う。

ただその場の思い付きや、楽をしたいという考えだけで行動していれば、自分という人間に対して人間性を構築することはできない。信念というものは決して楽をするためにあるのではなく、苦しい思いをすることも多々ある。しかし自分がこうありたいと思う自分があるのならば、まず自分の基本的思考が何なのかということをしっかりと認識してルーティンを確立することが必要だ。

“ものつくり”国家、日本。それが良いのか?悪いのか?

日本は昔から「ものつくり国家」と言われてきた。現在でも高品位なものを作ることに関しては秀でているし、実際「made in japan」というブランドは現在でも広く通用する。これまで日本の「ものつくり」というものに日本人は大きな自信と誇りを感じていたが、現在そのような「ものつくり」に対する大きな自信があらゆることに対して影を落としているように感じる。

ハードとソフトを区別するのならば、ものつくりとはハードである。そして日本はものつくりに絶大な自信を持っているように、ハードに関しては今でも世界でトップレベルである。しかしソフトに関しては日本の一人負けの感がある。ものつくりのハードにこだわるあまり、ソフトに対する力が欠けていたのではないだろうか?

ハードは目の前の机に置いてはっきりと見ることが出来る。しかしソフトは机の上に置くことも出来なければ、現物としてもなかなか認識しづらい。ソフトとはある意味「設計図」である。昔なら紙の上に書かれた図であり、現代ならコンピューター上に書き込まれるプログラミングである。これらの紙やプログラミング画面自体に全く価値はない。価値は紙の上の、あるいはコンピューター上の「情報」にあるのである。これらの重要性を認識するためには、目に見えない価値を感じなければならない。それらの価値を認識するにはものつくりの価値を認識するだけでは足りず、時にはものつくりの価値へのこだわりが情報の価値を見ることに対して盲目的にさせる。今日本に必要なのは、このような目に見えない価値を認識する力ではないだろうか?

ものつくりはそれはそれで素晴らしい。しかしこれからは「もの」と「情報」、すなわち「ハード」と「ソフト」の双方の重要性を認識する必要がある。ものつくり国家から脱却するのではなく、さらにソフトの強みを付け加える必要があるのである。これはコンピューターソフトに対してだけではなく、全ての目に見えない価値を作り上げることであることは言うまでもない。

ブラックホールが直接観測されたようだが。

4月10日、国際的な研究チームが、ブラックホールを直接的に観測することに成功したことが報道された。最近はブラックホールというものが完全に市民権を得て日常的にも話題になることが多いが、これまではブラックホールの存在は間接的にしか観測されておらず、今回の観測が初の直接的観測となったようだ。

ブラックホール存在はアインシュタインの一般相対性理論からの帰結として出て来るが、相対論から初めてブラックホールの存在を導き出したチャンドラセカールのことはあまりよく知られていないように感じる。今回の直接的観測は大きな成果かも知れないが、それは重要性からという以上に、興味の大きさから来るものだと感じないわけではない。重要性という観点で言えば、チャンドラセカールの理論の方が圧倒的に大きい。しかし大理論の常と言うか、チャンドラセカールが理論的にブラックホールを発見した当時は周りの研究者からはほとんど受け入れられなかったという。もちろん、今となってはチャンドラセカールに対する評価は絶大だが。

本質的に重要な成果は、多くの場合すぐには受け入れられない。なので大理論を目指すには、同時に小さな結果を出し続けることが要求される。それが出来ないと自滅することになるかもしれないので、結果が出て評価されるのが先か?自滅するのが先か?という争いになる。

成果の大小は研究費の大きさに必ずしも比例しない。今回のブラックホールの直接観測には多くの研究者と多くの観測施設が関わっていたようだが、おそらくかかったお金も膨大であろう。しかしブラックホールの存在を導き出したチャンドラセカールは、おそらく紙とペンだけでこの重要な結果を出したと思われる。ペンの力は偉大である。そして科学では往々にして、ほとんどお金をかけずにペンだけで大理論が出される。もちろん研究している分野によってかかるお金はまちまちだが、研究結果は必ずしも研究費に比例しないことは認識しておくべきである。もちろん、研究者が生活できるくらいの最低限のお金は必要だが。