月別アーカイブ: 7月 2019

選挙に対するメディアの役割。

テレビニュースなどのメディアでは、度々政治家の不祥事が取り上げられている。そのような度重なる不祥事に対して国民の怒りも相当あるだろうし、そのような不祥事が政治家不信を招き、政治家に対する期待は無くなって行く。その結果、投票率は低下し、特に若者の投票離れが顕著になって行くのだと思う。

この様な選挙離れに対して政治家の責任は非常に大きいが、その一方、メディアの側にも大きな責任があるのではないかと僕は考えている。その理由は二つある。まずは政治家が自分に利の大きい高齢者向けの政策の発信がメインになる中、メディアもそれに対応して高齢者向けの政治ニュースをメインに扱っていることだ。それによって若者は疎外感を感じるのではないだろうか。自分には政治は関係ないし、政治家の側も若者の方を向いていない。そう感じられれば若者の足が投票所から遠のくのも無理はない。

もう一つは、メディアが政治家の不祥事は大きく取り上げるが、政治家の成果や取り組んでいる事を軽視していることだ。不祥事などは市民の目耳を集めやすい。以前話題になった号泣議員などはその最たる例だ。しかし政治家が今何に取り組んでいるのか?そのような事をいったいどれだけの人が理解しているだろうか?これは単に市民が不勉強だからと言うだけではない。メディアがこう言った話題をなかなか取り上げない事も原因である。号泣議員のニュースには膨大な時間が割かれてきた。しかし普段の政治家の取り組みに関するニュースはほとんど目にすることはない。相当能動的に知ろうと思わなければこのような情報を仕入れることはできない。

メディアと言えども商売なので、市民が興味ある情報をメインに垂れ流すことはもちろん理解できる。しかし政治家が現在何に取り組んでいるかと言う情報は非常に重要である。そのような情報を日常的に発信すれば、もう少し政治が身近なものになるのではないだろうか?若者の足を投票所に向かわせるためには、まずは日常的に政治ニュースに触れられる環境を作ることが大事である。

悪しき平等主義。

近年は平等と言う事に対して社会が敏感になっている。もちろん、平等な社会にすることは重要なことであるし、多くの事に対しては平等は良い影響を与える。しかし、思考停止的に平等にこだわってしまえば、それが悪しき平等主義に繋がってしまうこともある。

例えば企業でも給与に関しては、皆同じように昇給して同じ金額の給与をもらうことが平等と考えられて来た。最近は、同一労働同一賃金と言う事が広く問題に上がることが多くなったが、このような同一労働同一賃金には僕自身も大きく賛成である。同じ成果を挙げたのならば同一賃金を支払うのは理に適っている。問題なのは、ある意味同一労働同一賃金の対極にある事と言えるが、能力も成果も異なるのに“平等に”同一賃金を要求することだ。しかし日本では、このような悪しき同一賃金主義がはびこっており、それが日本の将来を暗いものにするのではないかと僕は、そして一部の人は危惧している。

そのような悪しき同一賃金主義の下では、能力のある者は正当に能力を評価してくれる海外に流れ、結局能力のない者だけが残ると言う事になってしまう。能力のない者にとっては居心地の良い日本社会である。よく言われているように、平等にすべきなのは、機会の平等であって結果の平等ではない。しかし、日本では結果の平等に極度にこだわっており、その結果、共産主義的な低いレベルでの平等が行われ、そのレベルは年々低くなってきているように思われる。

今日本で必要なのは、人物に対する正当な評価である。結果に対する平等ではなく、正当な評価が真の平等に繋がると僕は考えている。悪しき平等とは、見える所だけを平均で均した見かけ倒しの平等である。見かけではなく、その中身まで掘り下げて評価をしなければならない。そうしないと、世の中にはびこっている悪しき平等主義は無くならないであろう。

お金の価値。

お金の価値とは何か?と言う問いに答えることは意外に難しい。1000円は誰が見ても1000円だろ!と言いたくなるが、そもそもその1000円のお金とはどれだけの価値を持ち、何を意味するのか?と言う事は、現在の経済学をもってしても意見が分かれるところだ。昔は金本位制という制度によって、お金の価値が(貴金属の)金によって定義されていた。では金本位制が廃止された現在にとって、1000円という紙幣は何を意味するのか?明確な答えは確立していないように思える。

経済的なお金の価値とは別に、自分が考える自分にとってのお金の価値というものも人それぞれだろう。しかし次のように大きく分けられると僕は考えている。一つは千円はどのように手に入れたお金でも同じ千円だという考え。そしてもう一つは、同じ千円でもどのように手に入れたかによって大きく価値が異なるという考え。このどちらであるかと言う事によって、生き方も人生観も大きく変わると僕は思っている。僕は明確に後者の方である。

人生に基礎理念を打ち出し、そしてそれに基づいて何に取り組むべきか?と考えた時、お金に対する考えは重要になる。基本的には大きな金額のお金の方が価値があるが、ある時にはそれが必ずしも正しいとは言えないことがある。それは億万長者が(幸せな確率は高いかもしれないが)必ずしも幸せではないと言う事からもわかる。そして物事に対する感じ方も大きく変わるだろう。それが良いか悪いかは人それぞれの判断によるので、結論を断定することはできないが。

沢山のお金があればそれはそれで良い。ただ、そのお金の価値を満喫することが重要である。一億円あったとしても、それが百万円くらいの価値しか感じられず、百万円分の幸せしか感じられないのなら、それは百万円でしかない。逆に、百万円のお金で一億円に匹敵する価値を感じることが出来れば、それはお金を精神的にコントロールする最高の技術である。

お金の価値は、一つは社会経済に中にあり、一つは自分の思想の中にある。この二つにまたがるお金の価値を自分の中で上手くコントロールすることは、お金の価値を最大限に発揮するためにも非常に重要な事であろう。

「お金は未来のビジョンのためにある。」本田圭佑氏の言葉。

雑誌「GOETHE」2019年8月号(幻冬舎)に書かれていたサッカー選手・本田圭佑氏の言葉である。

人はなぜお金を稼ごうとするのか?この答えはいろいろとあるだろう。普通に生活するのにもある程度のお金は必要だし、物欲があればそれを買うためにもお金が必要だ。人と交際するのにもお金は必要である。本田氏が冒頭の雑誌で述べているように、資本主義国家で生きているからには何かしようと思えばお金が必要になる。本田氏は本気で世界平和を成し遂げようと行動しているようだが、それを成し遂げるためには膨大な資金が必要だ。

そのような中で一番重要なお金の使い道は、未来のビジョンのための投資だ。しかしこの事の重要さに比して、これを最も重要視している人は多くはないように思える。世の中では、特に日本では、子供の頃から貯金することが重要だと刷り込まれている。だから大人になっても、老人になっても、いざと言う時のためにとことん貯金しようとする。もちろん、無駄遣いするよりかは貯金する方が少しは有意義であろう。しかしそもそもお金は何のためにあるか?と考えた時、お金は貯めるためにあるのではなく、使うためにあると言えるのではないだろうか?しかし貯蓄のスキルは高いかもしれないが、お金の使い方のスキルを考えた時、どう使って良いかわからない人が少なくないのではないだろうか?

特に未来のビジョンのための投資と考えた時、いったいどれだけの人がこれを実行できているだろうか?自己投資と言った場合、ただ単にやみくもにセミナー参加への投資や資格取得のための投資しか出来ないようであれば、それは半分は違うと僕は思う。もちろん、そのような投資でも理に適ったものもたくさんあるので否定はしない。問題はそこにビジョンがあるかどうかだ。ビジョンなき自己投資はほとんど意味を持たない。

僕が今現在、お金をとことん自己投資しているのは、ビジョンを実行し成し遂げるためである。高価な専門洋書なども爆買いである。なぜそこまでできるかと言うと、明確なビジョンが描けているからだ。今はそのビジョンの中身を一つずつ埋めて行くことが重要である。そしてさらにその先のビジョンを描いて行く。本代圭佑氏が言うように、お金は未来のビジョンのためにあるのである。しかしたまには無駄遣いするのも悪くないと思う。下手な自己投資や意味のない貯蓄をするくらいなら、気分発散のためにお金を使うのも悪くない。しかし「未来のビジョンのための投資」と言う軸はぶれてはならない。そこをしっかりと死守すれば、一時的には苦しくなっても、人生を通じて見た時に非常に意義のあるお金の使い方が出来るのではないだろうか?

本という武器。

人間が生きる上で、何らかの武器は必要だ。それは仕事で使う道具であるかもしれないし、日常生活を送る上で必要不可欠の道具かもしれない。僕にとっては本が生きる上で必要不可欠な武器だ。だから本にかけるお金は惜しまない。少しでも必要になると思う本は手が届く範囲に置くようにしている。そのような環境が人生を次のステージへと進むめるのに大きな力になると思っているからだ。

とは言え、単に読書をするだけの本はそんなに必要ではない。もちろん僕も読書はするが、読書は僕にとって日常からの逃げである。数学や物理が思うようにはかどらない時に、気分発散的に読書をする。だから調子が良い時は読書をしない。読書をするのは、何もしないよりは読書でもする方が良いだろうと思うからだ。もちろん読書も非常に面白い。最近だと中公新書やちくま新書を読むことが多い。中公新書やちくま新書には知的好奇心を刺激するような本が結構出されていて面白い。

その一方、哲学書を読むことはめっきり減った。それは最近、哲学書に幻滅しているからだ。特にドイツ哲学などの、いわゆる本格的学問としての哲学書に失望することが多い。彼らは一体何をしたいのか?どう考えても科学的でなく、自己満足しているだけに思えて仕方がない。もちろん哲学は非常に重要であり、大きな意味を持っている。しかし学問的哲学者の議論には、本来の「生きるための哲学」という観点が大きく欠落しているように思えてならない。

多くの本を読むのも良いが、まずは一冊バイブルとなるような本を手元に置くと良い。もちろん軽い本ではなく、自分が打ち込むべき分野の専門書が良いだろう。そしてそこからさらに必要となる本が出てくれば、そこに加えて行けばよい。そうして行けばいつの間にか数百冊とたまってしまうこともあるが、そこまで行く必要もないとは思う。まずは一冊噛み応えのある本を手元に置き、それを武器として人生を進めて行くのが良いだろう。

数学とは遊び、ただし道楽では決してない!

僕が大学院時代にお世話になった数学者(世界トップクラスの数学者である)が、「だからこの遊び(数学)はやめられない」と言っていた。数学は一つの学問ではあるが、どのような学問にもゲーム的要素はある。だから学問をゲーム感覚で遊ぶことは重要であり、そのような遊びの中から重要な結果が生まれるものである。ただ、遊びとは言っても、決して道楽ではない。時には苦しい時もあるし、精神的に追い詰めないと乗り越えられないことも多々ある。

ビジネスというものも、ゲーム的要素は大きくあるのではないかと思う。だからビジネスをある種のゲームと捉えることが出来る人は強いのではないだろうか?もちろんビジネスにはお金がかかっている訳だから、失敗すれば大きな損失を被ることになる。だから軽い気持ちでは出来ない。ビジネスが道楽とは違うと言われる所以はそのような事だからである。

数学やビジネスと言った遊びの魅力に惹き込まれれば、テレビゲームや趣味などの遊びなど取るに足らないものだと感じてしまうだろう。もちろんそのような遊びをするのもよいが、数学で遊んでいる方が圧倒的に楽しいしやりがいもある。そして数学の中の未開の知に足を踏み入れることは、スリリングでありエキサイティングである。そしてそこで開拓した数学が、100年後の世界を大きく変えることになるかもしれない。ただ3年後という訳には行かないので、そこが少し寂しい所である。

世の中には人生を懸けるべき遊びというものが存在する。そのような遊びに打ち込むことは、自分にあらゆる力と人間性をもたらしてくれる。遊んでばかりと言うとネガティブな意味で捉えられることが多いが、数学などの人生を懸けるべき遊びに打ち込んでいる人は、人間的にも圧倒的に面白い。そのような面白い人間になるべく、数学と言う遊びに没頭したいものである。

ユーモアは生き様で見せよ!

ユーモアはないよりある方が圧倒的に良い。どのようにユーモアを出すか?多くの人は色々と考えるところであろう。単純にギャグなどを言ってユーモアを出す人もいれば、あるいは服装でユーモア感を出そうとする人もいるかもしれない。もちろん、それはそれでいい。ユーモアを言える人は非常に素晴らしいと思う。

僕はユーモアをどのように出すか?と言った時、言葉や外見だけでなく生き様で表現すべきだと思っている。生き様とは、すなわち人間性である。どのようなリスクを取り、どのような事に挑戦しているか?そのような事は全てユーモアにつながると考えている。逆に、無難な生き方をしている人からは、ユーモアは感じられない。やはり傍から見ても面白い生き方をしていると感じられることが大事である。

ユーモアには軽快感が感じられる。すなわち重い生き方をしていればユーモアは感じられない。しかし、重厚に生きることが悪いわけではなくて、重厚感や悲壮感を周りに感じさせないことが大事なのである。苦しい時は本当に苦しい。時には周りに助けを求めざるを得ない時もあるであろう。そのような時は思い切って周りに助けを求めれば良いが、普段は苦しさなどどこ吹く風と軽快に生きて行きたいものである。

人間にとって中身と外見は両方とも大事である。中身が良ければ外見は関係ないと言う人も多いが、僕はそうは思わない。外見も自分という人間の一側面であるし、意外と内面は外見に表れてくる。外見だけで判断してはいけないが、外見で判断できることも少なくない。ユーモアにおいても、言葉や行動と言った外見的ユーモアと、生き様に見られる内面的ユーモアの両方を発揮できれば最強である。

では、どのような生き様がユーモアのある生き様と言えるのか?簡単に表現できることではないが、まずは自分が自分の生き様を面白いと感じることが大事である。そして挑戦に続く挑戦を繰り返すエキサイティングな生き方を続けていれば、結果的に極めてユーモアな生き様を見せることが出来るはずだと僕は考えている。

学問は自由だ!

これまで、そしてこれからも数学や物理の研究は続けるのだが、数学や物理の研究に取り組んでいて常に感じることは、数学や物理は自由だと言う事だ。突き詰めて行けば行くほど、それらの世界が自由であることを感じ取ることができる。自由であるからこそ面白くもあり、興味が広がるのである。

それに対して英語はどうだろうか?僕は中学生の時に学校で英語を習い始めてから、ずっと英語に対して苦手意識を持ち続けてきた。今でも英語は苦手だし、嫌いでもある。そして英語に対してずっと凝り固まったイメージを持ち続けてきた。英語はこうであるべきという一方的な考えがあり、決まったルールに従って、それから外れては絶対にいけないと考えていた。そのように考えてしまっては身動きが取れなくなる。そして英語を話すのが怖くなり、ますます英語が出来なくなる。そのような悪循環の中に僕はいた。

しかし、最近非常に分かりやすい英語の解説書(以前にブログでも紹介した)に出会い、英語に対するイメージが180度変わった。英語というものも非常に自由な学問だと気付いたのだ。しかしそのような事は少し考えれば当たり前の事である。日本語でも標準語以外の言葉はいくらでもあり。例え標準語を話すにしてもバリエーションは無数にある。そしてルールから多少外れても意味は十分通じる。日本語がそうなら、英語もそのはずである。イメージさえしっかりとつかめれば、意味は十分に通じるのである。

やはり、学問は自由であるべきである。こうでなければならないという凝り固まった考えでは学問は進まない。自由な逸脱が学問の深化をもたらすのである。そして理解すればするほど、どんどん自由になって来る。学問の一つの到達点は、自由を得ることである。もちろん英語などでは、実用性も非常に重要である。しかし学問的価値は自由性にある。数学が一番自由な学問であることは疑いないが、その他の学問においても非常に自由な世界が広がっている。最近の英語の勉強において遅まきながらそう気づくことが出来たのである。

科学技術の発展は、完全なる善なのか?

現代の人々は科学技術が右肩上がりで発展して行くことを当たり前に思い、それに伴って世の中が便利になって行くと信じている。もちろん、科学の発展によって飛躍的に便利になっているのは事実である。そして多くの人は、科学の発展を善だと思っている。しかしそのように善だと言い切ってよいものだろうか?さらに言えば、便利になることがそんなにも良い事だろうか?

科学技術の軍事技術への応用は、科学技術の負の側面だ。そのような事は誰でも分かるので、あえてここでは述べない。では、科学技術によって便利になることが一般的に思われているほど善なのかと言う事を問うてみたい。

例えば、自動車があることによって人々は楽に長距離を移動することが出来る。こらは非常に便利な事である。しかし、「便利」と言う事が必ずしも「善」だとは僕は思わない。さらに、役に立つことが大きな善であることは多いが、完全なる善だとは言い切れないと思っている。逆に、表面的には役には立たないと思われていることが、非常に意義のある事である事も存在する。そのような意義や善を判断するためには、本質を見抜く目が必要だ。それがないと、即物的に「役に立つ=意義がある」、「便利=善」と考えてしまう。しかし、何もそのような判断が間違っている訳ではない。問題はそのような判断過程において、思考のプロセスが入っていないことだ。だから「便利=善」とは判断できても、「役に立たないが意義がある」とは判断できなくなる。判断のレベルを上げるためには、即物的な判断ではなく、思考による判断が必要なのである。

便利な事、役に立つ事でも、深く考えると意義のない事もたくさんあることに気付く。しかし、科学技術は後には戻れない。それは核兵器が存在する世界から核兵器を消滅させることが出来ない現在の世界が証明している。もちろん未来はどうなるかわからない。人類の努力によって100年後の世界から核兵器が消滅している可能性もゼロではないと僕は考えている。しかし、それを実行することは極めて難しい作業である。現在の努力によって未来は変えられる。それは個人の人生においてもそうだし、世界平和においてもそうである。だからこそ、努力することはいつ何時も重要な意義を持つのである。今少し努力すれば未来は少し変わるであろうし、上手く行けば大きく変えられるかもしれない。

自由だとか、人権だとか。

現在、香港のデモが注目を浴びている。香港のデモは条例の制定に関するものだが、簡単に言うと、自由だとか人権に関するせめぎ合いだ。日本では近年、このようなデモは全くと言っていいほど見かけない。それはある意味、日本が平和であることを象徴していると言えるが、果たしてこのような平和に見える日本で自由や人権が守られているかと言うと疑問に感じることが多い。

日本と言う国は資本主義であり、自由主義の国である。そして多くの日本人は日本が自由な国だと信じている。もちろん、中国などに比べると自由な国である。しかしそのような自由度が年々落ち続けているように思えてならない。

自由度が落ち続けている理由はいくつか考えられる。その代表は、テロ対策を強化した結果だと言える。テロを防ぐためには規制を強化しなければならないこともあり、ある程度はやむを得ない所はある。しかし、深刻なのはもう一つの理由だ。それはITの飛躍的な発展である。ITが発達するにつれ監視が容易になり、それに乗じてあらゆる組織が自己を守るために監視を強化している。確かにスマホは非常に便利なツールである。しかしスマホを持つことによって、人々は常に行動を記録されることになる。しかし多くの人はそのような実感はない。この様な状況は、檻の中の自由だと言える。

現在の状況は非常に危うい基盤の下に自由が成り立っていると言える。しかし一歩踏み外せば、それは全てもろく崩れ落ちる事になるのではないか。そして科学技術の発展が逆行することは99%無いので、このような自由の崩壊を防ぐことは非常に難しい。しかし不可能ではないと僕は考えている。まず人々が、ネット社会では容易に監視が可能であることを認識することである。そして自由が失われつつあると感じた時には声を上げることが必要である。社会というものは、法一つで劇的に変えられる。もちろんそれが100%である訳ではないが、市民が選挙で投じる一票によって社会は大きく変わる。今月、参議院議員選挙が行われる。自分の意志を示し政治を動かすために、まずは一票を投じることが非常に重要である。