月別アーカイブ: 9月 2019

東電を廃炉に特化した企業にすればどうか?

電力会社とは、一言で言えば電気を売って儲ける会社だ。しかし現在の東京電力の置かれた立場は複雑だ。今東電が抱えている最も大きな課題は、誰が見ても福島第一原発問題であろう。もちろん福島第一原発は廃炉にするしかないが、この原子炉の廃炉は非常に困難な作業だ。原発を作ることは今ではそんなに難しい作業ではないかもしれないが、原発を廃炉にする作業は技術的にもまだ確立されているとは言えない。さらに、震災で被害を被った福島第一原発の廃炉作業は、その何十倍もの困難が伴う。そもそも廃炉が上手くいくかどうかもわからない状況だ。

そこでだ。この東電が抱えている一番の問題である廃炉作業を、東電のメイン事業にするのはどうかと僕は思っている。東電が置かれている立場の一番の困難は、福島問題を解決しながら発電事業を行わなければならないということではないだろうか。そのような事に対して、「発電事業=ビジネス(利益)」、「廃炉作業=負債(損失)」と捉えられているかもしれないが、その廃炉作業をビジネスにしてしまうのはどうかと僕は考えている。廃炉には非常に高度な技術が必用であり、世界的にもこのような廃炉をビジネスとして行っている企業は僕は知らない。もしかしたら僕が知らないだけで、廃炉をビジネスにしている企業は海外にあるのかもしれないが、今廃炉を待っている原発は世界にたくさんあるはずだ。

今東電は、否が応でも廃炉を実行しなければならない。もし東電が廃炉技術を確立させビジネスにできると、この先数十年は非常に大きな利益を得られるのではないだろうか。そしてそこで得た利益を、福島の被災者の賠償にも回すことができる。それは東電に対しても、福島市民に対しても、そして原発のある世界各国に対しても、全ての利益になるのではないだろうか。廃炉というものをネガティブに捉えるのではなく、ポジティブに捉えていくという思考的変換が必要である。

現在、小泉進次郎氏が環境大臣になり、原発問題に大きく取り組もうとしている。父の小泉純一郎元首相は、原発ゼロを声高に発信している。進次郎氏が父の意志を継ぎ、原発ゼロを遂行するためにも、東電の廃炉ビジネス化は大きな力になるのではないだろうか。そして廃炉を負債と捉えるのではなくビジネスと捉えることは、東電社員の意欲を大きく向上させるのではないだろうか。これからは原発建設の時代ではなく、廃炉の時代だ。東電が廃炉のビジネス化に成功すれば、巨大なビジネスになるはずだ。そしてそれは回り巡って、福島の被災者のためにも大きな力になるはずだ。

まず攻めがあって。

僕は人生をとことん攻めて行くとよく言っているが、だからと言って守りを考えない訳ではない。防御に関しても最強である必要があるが、しかしそれらの防御は攻めがあって成り立つものでなければならない。だからここぞという時は丸腰でも攻めて行くことにしている。一番危険なのは、自分を守ることが第一条件になってしまうことだ。

時には、人を守るために攻めて行かなければならない時がある。「攻撃は最大の防御」という言葉があるように、攻めの姿勢のない防御は崩れ去るのも早い。そして攻めのない防御は、その場しのぎでしかないことが多い。つまり長期的視点に欠けている。長期的視点とは、「今損をして、将来得をする」ということである。そしてそれによって利益を最大化することができる。しかし、その戦法が常に功を奏すとは限らない。つまりリスクがある。ではどう考えればそのようなリスクのある行動に出られるのか?

そのためには、一度損得勘定を抜くことが必用だ。損得勘定以外の事、つまりリスクさえもスリルと考えて楽しむとか、また長期的構想の構築自体を楽しむとか。つまり全ての事を楽しむのである。究極的には苦しみさえも楽しみにすればいい。そしてその苦しみを乗り越えれば、達成感を感じるのもいいと思う。意外と窮地に陥っている時の方が、人生が充実していることも少なくない。今の僕の人生はそのようなものである。

とは言え、僕でもくだらない守りに入ることもよくある。そのような時は、そのような自分に落胆する訳ではあるが、同時にそのような自分をどう変えていくべきかということを徹底的に考える。それによって自分を変えるにはそれなりに長い時間がかかるが、75%くらいのことは変えられているように思える。「本当の自分」とは、今のありのままの自分である必要は全くない。自分を自分の思う方向へと変えることができれば、それも本当の自分なのである。本当の自分を常に変革するためにも、常に人生を攻めて行くことが必要である。

科学を専門にしているからこそ。

科学の研究者は、全ての物事を科学的に考えていると思っている人がいるかもしれない。確かに、全ての物事、日常的な物事を科学的に考えている研究者は多いかもしれな。そしてそれは多くの場合正しいかもしれない。しかし人間が生きるにおいて、科学的な解釈一辺倒ではどうしても乗り越えられないこともある。例えば人間の心だとか、恋愛だとかだ。もちろん現在では、人間の心さえも科学的研究の対象になっている。それは非常に高度な科学であり、非常に面白く意義のあることである。僕が言いたいのは、そのような心の科学研究に対してではなく、日常の人付き合いだとか人生に関してである。

とは言え、もちろん宗教とかそのような事を言っているのではない。僕の中では宗教などは論外である。人の気持ち、心、そして交流、このようなことを全て科学的な判断で動いていれば、多くのものを失ってしまう。もちろん、判断に困ったときに、科学的決断をすることは重要である。しかし、恋愛に科学を持ち出すバカもたまにいる。そしてそういう人に限って、科学を全く理解していない場合が多い。科学を持ち出すべきでない意義を理解するためには、科学的本質を理解することが不可欠だと僕は思っている。

このようなことからも、専門の科学だけでなく、科学全体を見渡せる力を付けることが重要である。科学以外のことを理解するためには、科学を理解することが必要なのである。これは、ジェネラリストになるためには専門を極めることが必用であり、またスペシャリストの道を極めるためにはジェネラリスト的な深い教養が必用だということである。

人の心を深く理解するためには、科学と感性の両方を磨かなければならない。物事を全く違う二つの側面から見るのである。そうすれば、第三の面が見えてくる。そのように多角的に物事を深めていけば、科学の理解も心の理解もさらに深めることができる。人間には物理的には備わっていない第三の眼を、多角的思考によって身に付けることは、決して不可能な事ではない。

図書館“も”利用する。

少し外出したついでに、久しぶりに市の図書館に足を運んだ。僕はこれまでは基本的に、読みたい本は全て買うことにしていたが、やはり読みたい本を全て買っていれば財布の中身が厳しい。図書館に足を運んで新刊本コーナーを眺めていると、少しではあるがなかなか面白そうな本が置いている。そこで面白そうな本をまとめて借りる手続きをすることにした。

面白そうではあるが、一回読めば繰り返し読みそうな本ではない。仮に繰り返し読みたければ、その時その本を買えばよい。とは言え、必要な専門書はこれからも基本全て購入する方針だ。しかし一般書籍はむしろ図書館で積極的に借りる方が良いのかもしれない。それで浮いたお金を専門書の購入に充てることもできる。

「図書館‘‘を’’利用する」ではなく、「図書館‘‘も”利用する」と言った方が正しい。そもそも、市の図書館に専門書が置いているわけではないので、そこは利用しようにもどうにもならない。そして、専門書は手が届くところにあって、手を伸ばせばすぐに取り出せることが重要だ。

これからも、必要だと思われる専門書は湯水のごとく?購入しそうだ。もしかしたら、書籍エンゲル係数だけは誰にも負けないかもしれない。

「資本主義」の次。

現在様々なところで、資本主義の次、つまり「ポスト資本主義」が模索され提言されている。資本主義の次が模索される理由は、多くの人が現在の資本主義体制に対して限界を感じているからだ。では現在の資本主義のどこが限界なのか?一つは格差の拡大である。これについては現在様々なところで取り上げられているが、いまいち決定打となる解決策は見出されていない。もう一つはITの急激な発達、ネット社会の急激な拡大であろう。ITの発達はボーダーレス化を促進させ、つまり国境という概念が希薄になって来ている。日本にいながら世界のどこにいる人とも瞬時にやり取りができ、ネットで世界の様々なコンテンツにアクセスできる。

このような事から、これまでの資本主義体制が限界を表し、否応にもポスト資本主義を考えざるを得ない状況を生んでいる。しかしこれは、中国のような共産主義が正しいと言っているわけでは全くない。確かに中国は急速な発展を遂げている。しかし中国の状況は資本主義国家よりもひどいと言える。その最たる例は、国家による国民の監視である。皮肉なことに、ITの発達は国家による監視を極度に容易にすることとなった。一見、ITの発達は大きな自由度をもたらしたように思える。しかしこれは「檻の中の自由」だと言える。しかし檻の中にいる自由人は、自分が檻の中にいることに気づいていない。

これまで我々は、資本主義こそが正義だと教えられてきた。確かに資本主義はこれまで様々な富を多くの人にもたらしてきたのかもしれない。これは逆に言うと、現在の資本主義の限界は富の力の限界だと言える。極論を言うと、昔は金さえあれば何でもできるという面があった。しかし現在はお金の価値の限界が露呈している。例えば、AIが発達するにつれ、人間性というものが重要視されてきているのではないかと思う。明らかに人間性はお金で手に入れられるものではない。コンピューターが発達するにつれ、自分の人間性というものを強く自覚する必要が出てきた。これまでは自分が人間であることなど、あえて考えなくても無意識に自覚する事が出来た。しかし効率性重視の現代社会では、それさえも難しくなってきている。

僕は幸運なことに、数理物理という人生を懸けるものに出会うことができた。それによって自分の意思が簡単に揺らぐことはほとんどない。自分の人間性を確立するためには、人生を懸けて取り組むものを見つけることが重要ではないだろうか?すなわち、人生の軸を作るのである。もし軸がぶれてしまえば、自分のやっていることなど瞬時にコンピューターに取られてしまう。そして怖いことは、それに自分が気づかないことである。もちろん、人間というものは千差万別である。だから個人的なアプローチの仕方は様々ある。しかしどの人間も、国という土地とシステムの中に生きている。だからどのような国であるかが非常に重要であり、それが個人の生き方にも大きな影響を与えることになる。なので資本主義が限界を表している現在、その次を真剣に考えることが非常に重要になって来ている。

たまにお酒を飲むのがいい(かも?)。

お酒は体や脳に良いのか?と問われると、現在では99%(100%?)良くないと言われている。昔は少量のお酒ならむしろ健康に良いとも言われていたが、最近の研究の結果によると、少量のお酒でも健康に良くないということが明らかになっている。少量のお酒は薬になるという言葉は、お酒を飲む人が自分を正当化するために言われた言葉かもしれない。

しかし時には、お酒を飲むことは気分転換になる。そのためにお酒を飲むという人も多いだろう。確かに健康には99%(100%?)良くないかもしれないが、たまにお酒を飲んで気分的に調子が良くなるのならばそれもありであろう。特にストレスがたまっている時などは、お酒で気分をやわらげようとしたくなる時もある。それはそれでありだと思う。

しかし「お酒は飲んでも飲まれるな!」とよく言われる。これが非常に重要である。お酒に溺れて依存になれば、100%悪い方向へと進む。だからある程度自制をかけることが必要である。僕自身はお酒はかなり好きな方だが、現在はお酒を飲まない日の方がだいぶん多いし、たまに飲むときも缶ビール一本か二本くらいで抑えている。そのおかげで、体も精神的にも良い状態を維持できている。

体と精神は、自分でコントロールすることが必要である。そのためにはお酒は極力飲まない方が良いかもしれない。しかし人と飲むことは非常に楽しいものだし、それで付き合いが円滑に進むのならば飲まない手はない。ここでもやはりリスク対効果という考えが重要だ。健康面でのデメリットと、それ以外の面でのメリットを比較してみる。そう考えると、たまに飲むのはメリットは大きいのではないか?ということで、一週間に一度(か二度)くらいはお酒を飲むのは悪くないと思うがどうであろうか?

未来はとてつもなく明るい!

明るさの評価には二通りの方法がある。一つは絶対的な明るさ、もう一つは相対的な明るさだ。絶対的な明るさというものは、測定器を使って正確に測ることができる。人間の人生の明るさで言えば、例えばお金だとかであろう。もちろん、お金だけで明るさを測れる訳でなく、あくまで一側面を評価したに過ぎないが、お金は数値で厳密に測ることができる。相対的な明るさは、つまりコントラストである。それは同じ一万円を所持していても、お金持ちが持つ一万円と貧乏な人が持つ一万円では全く価値が変わるということである。

人間の人生を測るとき、どうしても絶対的なものにこだわりがちだ。しかし実際に感じる明るさは、相対的なものの方がより感じやすいように思える。では、絶対的な明るさと相対的な明るさのどちらを重要視すべきか?もしこの質問に迷うのなら両方手に入れればよい。しかしそうは言っても、これは簡単な事ではない。もしかしたら普通に平凡に暮らすことを望む人もいるだろう。そこはそれぞれの人の価値観の違いである。どちらが良くて、どちらが悪いという話ではない。

今僕は、非常に明るい未来が見えている。未来が楽しみで仕方がないのである。しかし現在はまだ光の中にはいない。だから自信はあるが実感は全くない。今の僕を支えているのは明確なビジョンである。このブログでも何度も引用している山中伸弥教授の言葉「VW(ビジョン&ワークハード)」、全てはこの言葉が表している。従って、後はワークハードをするのみである。いや、ビジョンもどんどん更新して進化させていかなければならない。

リスクには目に見えるリスクと目に見えないリスクがある。目に見えないリスクというものは、誰もが無意識に取っているものだ。しかし目に見えるリスクは多くの人は避けようとする。例えばお金に関するリスク、あるいは人生に関するリスクなどだ。しかしこの目に見えるリスクを取れるか取れないかが意外と人生を大きく左右する。リスクを取り続けている時、大概人生はどうしても暗くなりがちだ。しかし未来の人生は非常に明るいように思える。これだけの未来の明るさを感じれるのは、人生において挑戦し続ける者の特権かもしれない。あとはそれを実現するのみである。

最近、僕が社会評論をしていない理由。

僕は最近、ブログで社会評論をほとんどしていない。いや、やり切れていないと言った方が良いかもしれない。その理由は、ポジティブな理由とネガティブな理由がそれぞれある。

ポジティブな理由は、評論者ではなく実行者になることが重要だと思っているからだ。例えば、政治家を批判しようと思えばいくらでもできる。しかし自分自身は政治家ではない。批判するだけして自分は何もしないというのはフェアじゃないと言える。もし政治家を本気で批判しようと思うのならば、自分自身が政治家になろうというくらいの覚悟が必要なのではないか。少なくとも自分が選挙に立候補するというくらいの行動力が必要かもしれな。もちろん政治家に対して国民が審査することは必要だ。そういう意味で、国民が政治家を批判することは非常に重要な意味がある。権力を放置してしまうと、自然独裁化をたどってしまう。しかし矢面に立たされているのは政治家であることも理解しなければならない。

ネガティブな理由は、自分が弱気になっているということである。現在、自分の人生に対しては積極的に強気に出ていることは間違いない。しかし社会の中で自分というものを考えると、なんだか評価を気にしているところがあるように思える。もちろん、社会での評価というものは重要かもしれないが、少なくとも僕自身は周りの評価などに行動を左右されるべきではないと思っている。僕の目指しているところはそういうところにある。その一環として、社会評論、政治評論をもっとすべきであるはずだ。しかし現在、それができていない。もちろん準備はかなりしている。なので、自分の気持ちの整理がつくと、また積極的に評論していきたいと思っている。

他人に対して自分の価値観を押し付けるのはおそらく間違っている。しかし自分の価値感を主張することは必要だと思う。政治や社会に対しても様々な価値観があるはずだ。だからそれぞれの人が様々な価値感に基づいて様々な評論をすることは必要だ。政治に対して、社会に対して、そして科学に対しても様々な価値感をぶつけ合い、正しい道を探っていくことが必要である。

社会は疑っても、人間は信じる。

人生が上手くいかない時などは、どうしても人を疑ってしまうことが多い。いや、人生が上手くいっていても、人を疑うことは多いかもしれない。しかし人を疑ってばかりいると、ますます疑心暗鬼になってしまう。なので、信じるべき人に対しては絶対的に信じるということも非常に大事だ。そのように信じるべき人がいることは、自分にとって非常に大きな財産だ。

しかし社会は明るい部分と暗い部分がある。社会とは疑ってかかることが前提になっているようなところがある。社会や政治、ビジネスなどは慎重に疑ってナンボみたいなものである。しかしその中にあっても、味方は信じなければならない。確かに味方であっても、打算的に味方になっている人も多い。しかしそのような打算的に味方になっている人に対しても、信じて付き合うか、疑って付き合うかによって、これからの展開は大きく変わる。

何だか現代においては、疑って生きる人が騙されにくく、賢い人間だと思われているようである。しかし僕は疑う人が賢いとは全く思わない。もちろん疑うべきところでは疑うことは必要だが、信じるべきところで信じることができる人、そのような人が賢い人間であると思う。確かに信じることによって失敗することもあるだろう。しかしそれ以上の成功を挙げればよいだけの話である。

失敗しないように生きるか?成功を挙げるために生きるか?これは同じことのように思えるが、根底は全く違っている。なぜなら成功を挙げるためには、その十倍の失敗が必要である。大成功を挙げるためには、その百倍の失敗が必要かも知れない。失敗をネガティブに捉えるか?ポジティブに捉えるか?そのような事が人間性であると思う。ポジティブになればなるほど、正しく人を信じることができる。そして正しく疑うこともできる。すなわち、ポジティブな判断を下し続けることによって、正しい判断力が養われるのである。

「面白い」という視点。

やはり面白くないことよりも面白いことをやりたい。誰もがそう思うだろう。そしてその「面白い」という感性は、物事を進めるうえで大きな原動力となる。それは数学や物理の研究を進めるうえでも同じだ。面白い方へ進めるのは正しい進め方であることが多いように思う。いや、面白いことを強引にでも正しい方向へ結び付けることが必要なのではないだろうか。

数学は大きく、代数・幾何・解析と分けられることが多い。しかし現在は、学際的な時代だ。そのような区分に固執していれば大きな成果を挙げられない。そもそも数学というものは全てどこかでつながっているはずだ。最近はそのような認識も強固になって来ている。ということは、好きなことに取り組んで、それを自分の専門分野に結び付けるということが可能になる。何がなんでも強引にでも結び付けるという意識があれば、何らかの応用はできるのではないだろうかと僕は思っている。

最近、僕は代数幾何に興味を持っている。初めはグロタンディークのスキーム理論に興味を持っていたが、そこから極小モデルプログラムと言われる森重文博士らが発展させた理論に興味を持っている。面白いと思ったのならば、どんどん取り組むべきだと思っている。森理論が数理物理に応用できるかどうかなんて分からない。でも取り組む価値のある理論だ。誰もやっていないのなら自分がやればいい。そこに価値が生まれる訳である。

皆それぞれ、面白いと感じることは様々である。「飯を食っていかなければならないから、そんなことはできない」という人もいるだろう。そのような人に強引に挑戦的なことに引きずり込むことはできない。そのような人は、飯を食うために日常を過ごせばよいのである。しかし僕は挑戦をしたくてうずうずしている。だから今はかなり苦しくても挑戦という道を進んでしまう。しかし苦しいのは今であって、将来まで苦しいわけではない。いろいろな面で将来に大きな希望を持っている。今が面白いのは「上級」、そして将来が面白いのは「最上級」なのである。