月別アーカイブ: 3月 2020

ピンチをどうチャンスに変えるか?

世の中では、運の良い、運の悪い人がいる。少なくとも世間ではそう言われている。もちろん、人それぞれ様々な巡り合わせがあるだろう。しかし運の良い人は本当に良いことばかりが起きていて、悪いことは全く起きていないのか?僕はそれは全く違うと考えている。

悪いことなど、誰でも頻繁に遭遇している。事の大小はあれ、僕なんかはほぼ毎日何かしらのハプニングは起きていると感じている。そしてたまには非常にストレスのかかる悪事に遭遇する。しかしそのようなピンチをピンチのままで終わらせていれば何も成果を挙げることもできない。運の良い人と思われている人は、ピンチをことごとくチャンスに変えている人間だと僕は考えている。

では、どうすればピンチをチャンスに変えられるのか?それは常に目標を達成させようとする意志を固く持つ事だと僕は考えている。常日頃そのような思考と意志を持つ事によって、同じことが起きてもそれをどう目標へとつなげるかと考えることになる。そのような思考こそ、ピンチをチャンスに変える思考なのである。確かに悪事が起こると一時的には非常にストレスを感じることになる。特に僕のようなストレス耐性の低い人間にとってはそれは非常に負担がかかる。しかし、それをポジティブな方向へ向けることができると、ストレスから大きく脱出できることになるし、全てが上手く回ることになる。

無条件なチャンスなどそうそう来ることはない。だからチャンスは自分で作り上げるしかない。そのようなチャンスを作る材料こそピンチなのである。ピンチを料理してどうチャンスを作り上げるか?それは自分の意志と思考にかかっていると僕は強く感じている。

精神と肉体。

スポーツが肉体だけでなく精神力も大事になるように、学問においても精神だけでなく肉体も重要になる。メジャーリーグの大谷翔平選手が精神的にも非常に熟しているように、学問においても強い精神力と同時にどれくらい強い肉体を持っているかが重要になる。そして数学においても「一に体力、二に体力、三四がなくて、五に知力」と言ってよいほど、体力は非常に重要になる。

やはり歳を取るにつれて体力は衰えるものだ。しかし僕のように若いころあまり体力トレーニングをしていなかった者にとっては、今トレーニングすると若いころ以上の体力を付けることも不可能ではない。そう考えて、僕は毎日筋トレ&ジョギングをできる限り欠かさず取り組んでいる。

そしてそれ以上に重要なのは、強い精神力を持つ事だ。これは現在批判を浴びている根性論とは全く違う。根性論と言うものはほとんど根拠がなく、思考停止的であり負の側面を見せることも少なくない。そういう意味で、根性論と言うものは非常に無責任なものであると言える。しかし精神と言うものは徹底的に思考的であり、精神力を付けることは全ての事においてポジティブな影響を与える。そして精神と肉体は連動していると言うことも重要である。精神と言うものは人生にダイレクトに繋がって来るものであり、物理的な体としての肉体、そして物理的な脳としての精神はどちらが欠けても生きて行くことはできない。

そう考えると、精神と肉体は同時に鍛えることが必要な事がわかる。もし学問に取り組みたいのならば、もちろん計算力も必要であるが、そのような計算力、思考力を最大限に活用するためにも、精神と肉体を極限まで高めることが必要だと僕は強く感じている。

なぜ科学を研究するのか?

色々な事に対して、なぜそれをするのか?と言う問いかけがなされる。それに対して様々な答えを出すが、その中のほとんどの答えは後付けである。それは「なぜ科学を研究するのか?」と言う問いに対しても同じだ。科学者はなぜそこまで科学に打ち込むのか?もちろん人に役に立ったりすることもあるであろう。しかしそれもほとんど後付けである。本当は単に「面白いから」である。その一言に尽きる。そしてそれで十分なのである。しかしほとんどの人はそのような答えに納得しない。だから後付けで色々と理由考えるのだ。

しかし、面白くもないことに打ち込める人は少ない。そして面白くないことをしても結果など出せるはずもない。もちろん受験勉強レベルなら嫌いな英語を頑張って点数を上げようとすることも可能であろう。しかし、嫌いだけど英語の研究をしようとする人はおそらくいない。それは数学や物理でも同じだ。

とは言え、面白いと言うことは理由と言うより前提条件と言った方が良い。わざわざ「面白いから研究をする」と言っても当たり前の事だ。そこに真理への探究や数的美しさへの魅了などが加わるのである。もちろん、数学が嫌いな人に数的神秘など見えるはずもない。

好きな事をすればよいと言っても、やはりそれだけではことを進めることはできない。数学の研究をするにも英語論文を読まなければならない。そしてそれ以上に大事な事は、教養を身に付けると言うことである。確かに教養が直接お金儲けにつながることは少ないかもしれない。しかし教養は広い視点を与えてくれる。そのような広い視点、大局的にものを掴むセンスが、仕事に力を与え、日常生活を豊かにするのだと思う。しかしそうは言っても、そのような抽象的な話はなかなか人に伝わらない。しかしもし自分がそのような事を理解できる人間なら、科学の世界に入り込むのも非常に良い選択だと思う。

ストイックが面白い!

ストイックと言うと何だか苦しみながら我慢するというイメージがあるが、僕自身は結構ストイックを楽しむことができる方だ。例えば毎日の筋トレやジョギング、そして毎日の研究まで、常に欠かさず継続することには自信がある。そしてそのように毎日継続することを一つのやりがいとして楽しんでいる。とは言え、興味のないことは全くできない人間だ。

最近、お酒を飲むことを止めることにした。とは言えまだ数日だが、お酒を飲まずに調子が良くなるのなら絶対にその方が良いし、全ては順調に研究を進めることにつながる。特別に人と飲んだり、あるいは極度のストレスを感じた時は気分転換に飲むこともあろうが、基本全く飲まないと言うことを原則に進めて行きたいと思っている。

お酒は飲まなくても大丈夫だが、僕にとってお酒以上に手強いのはコーヒーだ。最近、コーヒーを飲むと調子が悪くなる。(頭の働きが悪くなる。)なのでコーヒーはできるだけ飲まないようにしようと思うのだが、起きてからのコーヒー一杯の誘惑につい負けてしまう。そして昼も夕方もつい一杯二杯と飲んでしまう。しかし結果を出すためには、コーヒーも止めなければならないと感じているので、明日からはコーヒーも止めようと思っている。(と言いながら、朝の一杯の誘惑に負けてしまうかもしれないが・・・。)我慢しようとすると負けてしまうが、ストイックゲームと思えば面白いし達成感もある。ここはゲームとして乗り越えよう。

ストイックが苦しいものだとは誰が決めたのか?我慢と思うから苦しいのだ。事を成し遂げるための一過程と思えば、意外と楽しみも感じる。そしてストイックを実行することによって調子が良くなり事が順調に進めば、達成感も感じてくる。ストイックそのものは、意外と面白いものだと僕は最近感じ始めている。

誰も理解できない生き方。

自分の生き方が理解されないよりかは、理解された方がうれしいし生きるうえでも楽になる。しかし理解されないことがダメな事かと言えばそうでもない。誰も達成したことのないチャレンジングな生き方をしていれば、自然ほとんどの人からは理解されない。理解されると言うことは、多くの前例があるからだ。そして無難な生き方こそ、理解されるための近道だと言える。

人間と言うものは意外と表面だけを見て判断している。例えば、あるサラリーマンが仕事ができるかどうかを稼ぐ収入で判断することが多いだろう。もちろん、稼ぐ収入が多ければ仕事ができる人間である可能性が高い。しかし中には、お金だけを手に入れて全く動こうとしない人もいる。そのような事は今社会で問題になっているそうだ。そして稼ぐ収入が少なければ仕事ができない可能性は高い。しかしチャレンジングであるがゆえに現在は稼げていないだけかもしれない。

人間と言うものは意外と奥深いものだ。しかしすぐに理解され評価されると言うことは、表面的な簡単な人間である可能性も否定できない。理解され評価されることにこだわる人も多いが、それが目的になってはいけない。結果論として評価されれば幸いだが、過程で評価される必要はない。結果で勝負なのである。もしチャレンジングな事に取り組み結果を出そうとする過程にいるのならば、もう少し我慢して頑張ってみるのも悪くない。

自衛隊がなくなるとどうなるのか?

自衛隊に対して否定的な人も多いとは思うが、現在国民から一番信頼されている政府機関は自衛隊であると言われている。昔は自衛隊=戦争と言うイメージから嫌悪感を抱く人もいたが、最近は震災などの災害救助のイメージが強く、好感を持つ人も増えたのではないだろうか?そうは言っても、自衛隊は海外からは軍隊であると捉えられ、艦隊から戦闘機までありとあらゆる兵器を保持している。なので、「災害救助は認めるが、武器を持つ必要はない」と考える人もいるのではないだろうか。しかし、自衛隊から武器を奪うとどうなるのか?あるいは自衛隊がなくなるとどうなるのか?そのような事を考えることは非常に重要だ。

もし自衛隊がなくなるとどうなるのか?自衛隊がなくなった瞬間、瞬時に敵対国からミサイルが飛来し他国の戦闘機が自由に侵犯してくるであろう。確かに武器とは人間を傷つけるものではあるが、それと同時に自分たちを守るものでもある。では盾だけがあればよいのか?いや、剣も必要である。盾と剣は一緒になって防御効果を最大にする。もちろんむやみに剣を振り回すのは良くないが、剣を持つだけでも他国からの抑止効果は大きい。

核の傘の問題は非常に難しいが、この問題を考えることも避けて通れない。核兵器は確かに悪魔の兵器だと言えるが、同時に核抑止力があることも事実である。もしアメリカが全ての核兵器を手放すとどうなるか?これも瞬時に他国から核兵器が飛んでくるであろう。しかし核兵器をなくす方向へと向かわなければならないことも事実である。核を使用し大量殺戮をするなどと言うことはあってはならない。そのためには一時的にアメリカなどが核を維持することも過程として必要である。

しかし、日本は世界で唯一の核被爆国である。なので日本にしかわからない事実もあるし、日本だからこそ主張できることもある。核に関してイギリスが言うのと日本が言うのとでは、被爆国である日本の意見の方が重いことは当然である。日本は唯一の核被爆国として独自路線を行くと言う重要な選択肢がある。しかし現在の安倍首相はアメリカに追従して核を全面的に容認している。見方によってはアメリカよりも安倍日本の方が核に容認的であるとも受け取れる。これは明らかに日本の取るべき立場ではない。確かに日米同盟は強固でありアメリカと歩を共にしなければならないのは分かるが、主張すべきところは主張しなければならない。いつまでもアメリカの顔色をうかがってばかりでは、日米だけでなく世界の平和さえも危うくなってしまう。

自衛隊は国を守る機関であり、自衛隊が武器を保持することは当然のことである。しかし核兵器、あるいはその他の大量破壊兵器は保持すべきでない。そのようなスタンスを貫くことによって、日本の発言力は高まることであろうし、巡り巡って世界の平和にも大きくつながる。今すぐに世界の兵器がなくなると言うことはありえない。しかし長いスパンで考えると、それを極限まで減らしていくことは可能である。しかし治安を守る警察に銃が必用であるように、国を守る自衛隊にも武器は必要である。ただ一つの側面だけを見て判断するのではなく、社会を大局的に捉えて判断することが重要なのである。