日別アーカイブ: 2020年7月2日

社会がますます表面的になって来ている。

普段生きていて色々と感じることがあるとは思うが、僕は社会が表面的になって来ているのではないかと強く感じている。確かに社会は悪い側面を無くし、皆が暮らしやすい社会に向かおうとしていることは間違いない。しかしそれに向かっている事と、本当にそうなっているかと言うことは全くの別問題だ。何かを良くすれば別の何かが悪くなってくる。まさしくもぐら叩きである。僕は日本に住んでいるので日本の事が気になってしかたないが、おそらく海外でも中身は違え大筋では同じであろうと思われる。

その中でも僕が特に感じているのは、同調圧力から表面的になることである。特に日本では、皆と同じことをしなければならないと言う意識が強く、一人だけ違うことをしていると奇異な目で見られることが多い。よく言われるように、出る杭は打たれると言うことである。これを解決する方法は一つしかない。それは出過ぎた杭になることである。四六時中野球ばかりしている少年がプロ野球選手を目指していると言うと、「そんなのは無理に決まっている。バカじゃないか!」と言われる。しかしメジャーリーグで活躍すれば、少年時代に野球に打ち込んでいたことが美化される。イチローさんが正しくそうであったらしい。研究者でも同じだ。ノーベル賞を取ると断言している少年がいたらどう思うだろうか?やはりそんなのは無理に決まっていると多くの人は言うであろう。それを覆すには実際にノーベル賞を取るしかない。もちろん、研究者の一番の目的はノーベル賞を取ることではないのだが。

表面的になって来ていると言うことは、言い換えると無難になって来ていると言うことである、近年、日本の科学研究のレベルはどんどん低下していると言われている。その理由として科研費の削減などが言われているが、僕はそれが本質ではないと考えている。研究者が、特に若手の研究者がどんどん無難になって来ているからではないかと思っている。その背景には、研究ポストに就くことが困難になり、確実に研究ポストに就くためには小さく無難な結果を継続的に出すことが求められると言うことがある。しかしそれらの研究者は、本当にそれが自分の求める姿なのだろうか?もしそうなら本当に悲しい話である。

もちろん社会の表面化は、日常生活においても色々と表れている。いや、日常生活の方が顕著に表れているのかもしれない。人付き合いでは自分を表面的に繕って、良い側面だけを見せようとする。しかし苦しんでいる自分も本当の自分自身なのである。だから僕はブログでも正直に苦しい時は苦しいと書くことにしている。確かにインスタグラムやフェイスブックに苦しい様子を載せてイイねがもらえるわけないし、もしイイねされたら逆に落ち込むであろう。社会が表面的になるにつれ、人間までもが表面的になってしまう。そこが大問題である。それは言い換えると、本質を見抜ける人間が少なくなってくると言うことだ。たしかにもともと本質を見抜ける人間と言うものは少ない。それがさらに少なくなるのだ。ただ表面を変えること自体悪いことではないと僕は思っている。しかし重要な事は、表面と同時に本質的な中身も良い方向へ変えなければならないと言うことだ。