日別アーカイブ: 2020年10月2日

今、アメリカは自由を履き違えている。

アメリカと言えば自由の国だと言われているが、しかし今アメリカは自由を大きく履き違えているように思えてならない。例えば昔から問題にされている銃所持の自由、そして今ならマスクをしないで集団で騒ぐ自由。これらは自由と言う言葉で一括りしたものの、それらの自由はその他の多くの人の不自由・拘束と精神的束縛の基に成り立っており、そして時には多くの人に命の危機さえもたらしてしまう。

銃所持に関してはアメリカ国内・国外で常に問題視されているが、いつも最終的には銃を所持する自由を維持することで決着してしまう。これにはもちろん全米ライフル協会のロビー活動による政治的圧力が最も大きな原因だと思われるが、アメリカ市民が何でもかんでも自由を一括りしてしまうことにも大きな問題がある。全ての自由を一括りにして、百かゼロか?と問題を単純化してしまうことは良くない。何を自由にすべきで、何を規制すべきか?そのような事をケースバイケースで考えて行くことが重要である。

現在のコロナ問題で言えば、マスクをしない自由と言うものが問題になっている。もちろん、マスクが感染抑止に効果があるかないかははっきりと決着していない。なぜなら、健康な人間を実験台にしてコロナウィルスにさらして感染するかどうかと言うことを実験することなどできないからだ。なのでマスクは大きな効果があるかもしれないし、ほとんど効果はないかもしれない。しかし状況証拠や様々な間接的実験、そしてコンピューターによるシュミレーションによってマスクはかなり効果があると言われている。しかしアメリカでは(もちろん日本でも言えることだが)ここでも百かゼロか?で判断してしまう。マスクなど効果はない。だからマスクなどしなくて良いし、自分はかからないし、だから他人にもうつすことはない。なぜこういう思考パターンに落ち着いてしまうのか?もちろんマスクをしていても感染することはあるし、マスクをしていなくても感染しないことも多々ある。しかしここで重要な事は、感染するかしないかの二択ではなく、感染の「確率」を下げることである。マスクは少なくとも感染の確率を下げることはほぼ間違いない。このように問題を確率的に判断できない人は意外に多いものだ。

もちろん、四六時中、家の中で寝るときもマスクをすることはできないしそのような必要もない。しかし問題を確率的に考えれば、どのようなシチュエーションの時にマスクをすべきかはある程度分かる。そして問題をさらにややこしくしているのは、ウィルスが目に見えない事。なので人にうつしてもうつした本人にうつしたと言う自覚はないし、うつされた人も誰にうつされたかわからない。なのでマスク問題はかなり困難な問題であり、感染抑止と言う視点で考える以上に今はエチケット問題だと考える必要がある。

アメリカの自由の問題からかなり逸れてしまったが、やはり少しでも早くマスクなしでワイワイ騒げる世の中に戻って欲しいものである。しかし今回のコロナ禍によって、コロナに限らずマスクは感染症予防に大きな効果があることが認識されることとなった。今年の初めにコロナが流行しだしてからのインフルエンザ感染者数は例年の千分の一だと言われているし、子供がかかる手足口病の感染者数も去年の同じ時期の百分の一だと言われている。これは逆に言うと、全く感染症予防(マスクや手洗いなど)をしなければ、現在のコロナ感染者数は実際の百倍になっていたと単純に結論付けられる。自分たちがコロナに、そしてインフルエンザも含めて感染症にかからずに済むのは皆の努力の賜物なのである。こう考えると、コロナが終息した後もマスクなどの感染症予防文化はある程度残っていくのではないかと考えられる。しかしアメリカのように自由を履き違えてしまえば、同じ過ちを繰り返すことになるだろう。