日別アーカイブ: 2020年12月7日

努力しない自由?

僕は努力することは非常に重要だと思っている。なので僕自身はできる限り、目標に向かって努力しようと日々思いながら生きている。しかし、自分が努力することが大事だと思っていても、それを他人に押し付けるのは少し違うのではとも思う。学校などでは努力を押し付けられることも多々あるが、そもそも学校の教師自身、どれだけ努力しているのか?と言う話だ。努力する自由はもちろんなければならないが、努力しない自由と言うのもあって良いのではないかと思う。

一年を通じて、毎日努力をし続けている人はほとんどいないだろう。僕自身も努力しようとは思っているが、時には遊ぶこともあるし、努力できない時も多々ある。また、努力しないと言うより、努力できない人もいるだろう。

自分が努力することは非常に重要だが、あくまでも「自分が」であって、他人に努力を強制する権利はない。努力はしたものの、成功できずに苦しみだけが残る人もいるだろう。そのような結果になっても誰も責任を取ってはくれない。人によっては、努力しないことが幸せにつながることもあるのだ。ならば努力をしない自由も認めた方が良い。

しかし最近は、努力しても必ず報われる保証はないからと、努力を否定する人もかなりいるように思える。これに対しては、僕は真っ向から否定したい。確かに努力をしたからと言って100%報われるわけではないが、50%を60%、70%と確率を上げることができることは間違いない。なので、「努力は必ず報われる」と言うのは間違いであって、「努力は成功する可能性を上げてくれる」と言うべきである。そう言えば、「いや、それでも30%失敗するかもしれないではないか」と言う人もいるだろう。そのような人は、努力をしない権利を行使すればいいのである。

もう一つ僕がはっきりと言いたいのは、「失敗=無駄」では決してないと言うことだ。正しいのは、「失敗=経験」なのである。失敗なき成功などほとんど存在しないし、仮に全て最短距離で成功したとしても、そこには深さは生まれない。アインシュタインは数々の大きな成功を残した。そして彼が大きな失敗をしたとはほとんど聞かない。しかし人間と言うものは、自分の成功は口にするが、失敗は口にしないものだ。おそらくアインシュタインも数々の試行錯誤を行い、数々の失敗を経験したはずだ。

努力とは挑戦であり、挑戦の大部分は失敗である。つまり失敗は努力して挑戦した証である。なので僕は自分に対しては努力する意志は持ち続けようと思うが、努力したくない人まで努力する必要はないと思っている。努力をするかしないかはその人の自由なのである。果たしてあなたはそのどちらの人間になりたいであろうか?