成功の反対は・・・・・?

YouTubeを見ていると、ガンと闘ったアイドルの動画があった。その中で彼女が言った言葉が非常に共感するものであり、また今の日本に最も欠けていることではないかとも思った。それは、

「成功の反対は失敗ではなく、挑戦しないことである」

と言う言葉である。

現在の日本人は極度に失敗を恐れているように感じる。そして失敗を恐れるあまり挑戦をしないと言う選択ばかりとっているように感じる。そしてさらには、挑戦する人をバカにする風潮さえあるようにも感じる。もしこのような僕の感覚が本当なら、日本に将来は全くないはずだ。しかし現実として、日本は曲がりなりにも成り立っている。経済は確かに後退しているが、スリランカのように破産しているわけではない。それはこのような日本の中にも、それなりに挑戦者が存在するからではないかと僕は思っている。

僕は失敗はたくさん経験すべきだと考えている。失敗は挑戦した証であり、誇れるものでもある。そして多くの失敗を重ねる中で成功を生み出して行けば良いのである。しかし何を勘違いしているのか、多くの人は失敗をしないで成功することが善だと考えている。しかしはっきり言って、そのような人には100%、いや、200%成功は訪れない。なぜなら失敗を避けている時点で、挑戦を全くしていないからである。そして挑戦をしないと言うことは、もちろん成功もありえない。今日本に必要なのは、目先の利益、目先の成功ではなく、積極的に挑戦するという精神である。

僕自身のことになるが、僕は失敗の数は誰にも負けないと(変な)自負を持っている。そしてそれだけ失敗していると言うことは、それだけ多くの挑戦をしていると言うことである。もちろん挑戦し続けていることは僕の誇りでもある。しかし残念なことに、まだ成功には至っていない。しかし成功する自信、いや、確信は強固にある。数学・物理だけでなく、サイエンスのさまざまな分野の研究にも挑戦している。YouTubeも始めたし、今年は本を出版することもできた。なんだか年を重ねるにつれ、挑戦心が増してきているようだ。

挑戦しない人たちは、できない理由を必死に探しているように感じる。「自分には才能がないから」、「面倒だから」、「もう年だから」と。しかしこれらの理由は僕から見れば全てバカバカしいものばかりだ。才能がないなら才能を磨けばいいし、年を理由に諦めている人は、ならば若ければやっていたのか?と言う話である。

若くして結果を出せれば凄く良い。しかし遅くても結果を出せればそれも凄く良い。藤井聡太五冠のように若くして大きな成功を成し遂げた人には非常に憧れるし、とてつもなく偉大でもあると思う。しかし若くなくても挑戦し続け、これから大きな結果を出せばよいのである。自分には自分の人生がある。それが個性というものである。人と同じ人生を歩む必要なんて全くない。人生にも多様性が大事なのである。さあ、また今から新しいことにでも挑戦しようか!

僕が徹底的に本(主に専門書)にお金をかける理由。

僕はこれまで何度かブログにも書いてきたように、本(主に専門書)に多額のお金をかけてきた。たとえお金に余裕がなくとも、本にかけるお金はできる限り確保するようにしてきた。ホンゲル係数(収入のうち、本にかけるお金の割合)は日本一だと自負している。では、それらの本を全て活用できているのか?と言われれば、決してそうではない。しかしトータルで見ると、大きく活用できているはずである。

本とは知への入り口である。多くの人は、お金を稼ぐための知識をつけるために本を読むと言うだろう。それも全然間違いではないし、むしろそのような考えの方が世間一般の常識的に見て正しいであろう。またある人は、小説を読んで感性の豊かさを身につけると言うだろう。それも全然間違いではないし、こちらも世間一般的に見て常識であろう。では、専門書を買いまくるのはどうか?とても人にお勧めできるお金の使い方ではない。また、専門書を買いまくる人など社会的に見て圧倒的少数派であろう。また専門書を集めるのが趣味だなんて言うと、完全に変態扱いされるに違いない。そんなお金があれば、ロレックスの時計を買う方が圧倒的にメリットが大きいであろう。しかし世の中には変な人がいるもので、専門書を買うことに喜びを感じる人(すなわち僕のような人)が少数いるのである。

しかし僕の経験上、専門書を買うことは決して無駄ではないと感じている。実際、僕が大学時代に買いまくっていた専門書は、その時には全く活用できていなくても、後になって大きく活用されていたりする。もちろん中には読まない本もあるが、それも含めて自分の血となっているのである。ある時期、本を買いまくることをセーブしていたことがあったが、今はその時本を買わなかったことを後悔している。なので今はお金の許す限り本を買いまくることにしている。

本とは知への入り口であると先ほど言った。なのでその分野の基礎知識を身につけるには、専門書を避けては通れない。そしてさらに先に進めたくなれば論文を読むことになる。なぜ知への挑戦をしようとするのか?それは自己の科学に対する欲求でもあり、自分の限界への挑戦でもある。プロ野球選手が野球の技量に対する限界への挑戦をするように、科学者は科学的な知に対して人間はどこまで迫れるのか?と挑戦し続ける。そのためには専門書や論文は必要不可欠である。そして僕に関して言えば、「とことん本を購入しまくって、それを徹底的に活用する」と言うスタンスをとっている。しかし皆が皆そのようなスタンスを取る必要なはい。ただ僕はそのようなスタンスを取ることにこだわっているだけなのである。

本への投資は株への投資とは少し意味合いが違う。株への投資の最大の目標は金銭的利益にあるのに対して、本への投資の最大目標は自分の知的レベルの向上と人間性の向上にある。しかしそのようなことに価値を見出せる人は実際はあまり多くないのかもしれない。なので多くの人は株に多額の投資をし、千円の本一冊も買わない。しかしもし皆が皆本に多額の投資をしまくってしまえば、それはそれで世の中が偏ってしまうかもしれない。しかし現代の世の中において、年間に一冊も本を買わないと言うことになれば、それは明らかに知的危機であるに違いない。

WindowsからMacに乗り換えました!

これまで使用していたHPのWindowsパソコンにいろいろトラブルがあって、AppleのMacに乗り換えることにした。機種は「MacBook Air」、とは言え、吊るしの状態だとスペックが少し足りないと感じたので、メモリを8G→16G、ストレージを512G→1Tにカスタマイズしたものを注文した。そして二日前にそれが届いたので、昨日は一日中設定に時間を費やした。

では、前に使っていたパソコンのどこが不満で、どこにトラブルがあったのか?まずインテルのCPUがあまりにも酷すぎた。三年前のモデルであったが、CPUはかなり上位のCore i7とかなりスペックは高かったのだが、電源を入れて3分もすれば熱暴走を起こし、電源が落ちてしまうのだ。しかも冷却ファンが回ったり回らなかったりとHPのファンの制御も酷かった。そこで冷却優先の設定にするとファンがフル稼働するのだが、今度はCPUの性能が抑えられてはっきり言って下位のインテルCPUであるCeleronではないかと思うくらい性能がガタ落ちするのだ。これでははっきり言って日常使いもできない。そして性能には直接関係ないが、買った時からディスプレイのヒンジが曲がっているのだ。

それでHPにもインテルにも、そしてWindowsにも愛想を尽かして、Macに完全に乗り換えることにしたのだ。

今、Macを使って二日目であるが、Macを買って大成功だったと強く感じている。ほとんどの面においてMacが優っているのだ。ただ一つだけ問題がある。Macのスピーカーの音がかなりこもって非常に聞きづらいのだ。これは元々そうなのか、それとも僕のMacの個体が不良なのかわからない。しかしスピーカーの音だけはHPの方が遥かに良かった。ちなみにHPのパソコンのスピーカーは、バング&オルフセンと言う音響機器メーカーが開発したスピーカーだそうだ。

CPUなどの性能を見れば、AppleのM1チップはインテルチップの三年先を行っていると僕は思っているが、それ以上に違うのがMacとWindowsの完成度の違いだ。Macの完成度はWindowsの十年先を行っていると言っても過言ではないであろう。今までWindowsを使っていた僕にとって、Macの全てが感動ものだ!とにかくOSの質感が全然違う。そしてMacは簡単な操作でちょっとした内部にまで入り込める。とにかくシンプルでわかりやすい。おそらく僕はもうWindowsに戻ることはないだろう。

欲を言えば、さらにスペックの高いMacが欲しいと言う気持ちはある。しかしそれはこれから結果を出してからでも遅くはないであろう。今回買ったMacを駆使して、どんどん前に進んで行こうと思う。

コロナワクチン、これからの課題。

先日、3回目のコロナワクチン接種を受けて来た。現在流行しているオミクロン株にはワクチンの効果は低いと言われているものの、それなりに抗体増加による効果は見込まれると言われていることもあり、僕は積極的に打つ気持ちでいた。僕は3回ともモデルナワクチンであったが、2回目の接種の際はそれなりに発熱による副反応が現れた。しかしそれでコロナ感染および重症化のリスクが減るのなら、これくらいは十分許容範囲内であろうと考えていた。さらに最近では、コロナによる後遺症も低減する効果があることがわかってきており、さらにワクチン接種の意義が高まってきたように思う。

しかし3回目の接種の翌日には想定していた以上の副反応による発熱が現れ、体感でも二回目の接種時の副反応よりかなりきつく感じられた。この副反応は接種翌日だけでおさまったが、一日だけとは言え、かなり精神的には参ってしまった。今回だけで終わるのならともかく、これを毎回半年ごとに接種するとなると非常に大きなストレスとなり気が重くなってしまう。ワクチン接種にかなり肯定的な僕でさえそう感じるのだから、多くの人にとってはかなりの負担に感じるであろう。

そこで僕が考えるこれからのワクチン開発に対する課題を少し書こうと思う。当たり前の事だが、感染防止効果、そして重症化防止効果を高めるのは言うまでもない。それに加えて、後遺症防止効果も非常に重要になってくるはずだ。人によってはコロナはインフルエンザと同じだと言う人もいるようだが、インフルエンザとの決定的な違いは後遺症問題だと僕は考えている。インフルエンザでは(0%ではないだろうが)少なくとも僕は後遺症が発生するとは聞いたことがない。しかしコロナに関しては、数%あるいはそれ以上の確率で後遺症が発生することがわかっている。しかもコロナの症状自体は軽症であっても、後遺症がかなり重篤な場合もあると言われている。これはかなり重要な問題だ。しかもいつまでそれが続くかわからない。これはその後のQoL(クオリティ・オブ・ライフ、生活の質)に直結する深刻な問題だ。

そしてもちろん、副反応による負担が軽く、長期間効果が持続するワクチンを開発することも非常に重要だ。一回だけの接種で済むのならともかく、コロナとの戦いは長期戦になりそうな様相であり、何度も接種しなければならないとなると精神的な負担を軽くすることは非常に重要だ。現在は鼻に噴霧するタイプのワクチンも開発中だと言われている。そのような新しいタイプのワクチン開発に非常に期待する。

現代のように医療が非常に発達し、普通の病気で死亡するリスクが限りなく低減された今となっては、コロナの感染リスクは非常に高い。しかし歴史的に見れば、江戸時代以前の日本、いや世界では、ちょっとした病気で死亡することは日常茶飯事であった。これらの時代には、現代のコロナより危険な感染症に日常的にさらされていたのである。しかし現代の状況から見れば、コロナは深刻な問題であることは間違いない。ウクライナの悲惨な戦火が収まることと同時に、コロナによる脅威も低減していくことを願うばかりである。

世界最強の亀になる!

日本では、兎と亀の話がよく話される。ご存じの通り、兎は足が速くどんどん先に進むが、最後には地道に前に進んで行った亀が先に着くと言う話だ。僕は現在は兎でも亀でもない。しかし結果的には亀になればいいと思っている。しかし目指すなら、普通の亀ではなくて世界最強の亀だ!

僕の人生は、三歩進んで二歩下がる、いや、時には一歩進んで十歩下がるという時もあった。なのでなかなか前に進まない。困難の連続だ。時には不調に陥り、しばしば失敗を繰り返す。しかし時間がたって気づけば、それなりに前に進んでいるものである。不調に陥った時はかなり絶望的な状況になるが、それを乗り越えると心身共に前より強くなっているのだ。最近もかなり不調に陥っていたが、その原因が明らかになり解決方法が見つかりつつある。そしてそれを乗り越えることができれば、以前より心身共に強くなっているような気がする。そのためにも、最近はかなりハードな筋トレも再開した。

今開かれているオリンピックでは、最年少のメダルとかがよく話題になる。そして最年少と言えば、将棋の藤井聡太さんの話を避けては通れない。藤井さんはとてつもなく凄い。彼は言うなれば「史上最強の兎」である。そのような最強の兎に立ち向かっても勝てるわけがない。別に僕が藤井さんに対抗心を燃やしているわけではないが、僕は兎では全くないが、「最強の亀」ならまだ目指せるのではないかと思っている。ドラゴンボールと言うアニメでは、戦闘民族サイヤ人はダメージを負うほど回復したときにはさらに強くなっている。僕はサイヤ人ならぬ「サイヤ亀」、そして「亀仙人」を目指そうと思っている。

人間は誰しも歳を取る。しかし「歳を取ったからもう無理だ」と言うのは、単なる言い訳にしか聞こえない。特に挑戦もせずに、そして努力もせずに初めからあきらめるのは愚の極致だ。なので僕は何でも挑戦してみる。その結果、失敗しても良いのだ。失敗は挑戦の証であり、途中で100回失敗しても最終的に成功すればいいのだ。しかし「最年少の天才」は良く聞くが、「最長老の最強の亀」とはほとんど聞かない。しかし前例がないなら、自分が前例を作ればいいだけだ。幸い、気力だけは誰よりも維持し続けている。人間は老化するだけでなく進化もし続けることができる。死ぬまで進化し続ける事、それが僕の最大の目標だ!そして人生を終える時、亀仙人になっていたいと思っている。

真の王者、坂本花織!新たな評価軸を考える。

北京オリンピック、女子フィギュアスケートで、坂本花織さんが銅メダルを獲得した。今回の女子フィギュアはロシア選手の薬物問題が大きく取り上げられ、何かと物議をかもした大会だった。しかし僕が言いたいのは、薬物問題の事ではない。純粋に演技の内容に関してだ。

最近のフィギュアスケートでは、ジャンプばかりに焦点が当てられているように思えてならない。特にロシア勢は、超高難度のジャンプを次々とこなしていくことが代名詞になっている。それに対して坂本選手は、高難度のジャンプをほとんど飛ばないことで有名である。それは裏を返すと、表現力、そして完成度でいかに魅せて行くかと言う事にこだわっていると言う事である。そのような高難度ジャンプを飛ばない坂本選手がメダルを取ったことは、とてつもなく大きな意義があると僕は考えている。

ロシア選手は良くも悪くも超絶技巧ジャンプ。とは言っても、表現力に関しても十分素晴らしい演技をしているので、そこは勘違いしてはならない。そのような演技力あっての超絶技巧ジャンプだ。しかしネガティブな目で見ると、そのような次々と繰り出すジャンプが悪目立ちをしていると言えなくもない。

ぼくは演技中は、テレビ画面の左上にオンタイムで表示される技術点は一切見ないことにしている。それよりも演技そのものの魅力を十分に感じたいからだ。なので坂本選手の表現力、そして完成度は感動レベルのものである。そしてこれからは、このような坂本選手のような表現力を競う演技がさらに求められ評価されていくのではないかと僕は強く感じている。

とは言え、高難度ジャンプそのものを否定しようとは一切思わない。しかしジャンプ大会とも言えるような演技構成に対しては、スケーティングの魅力が半減してしまうのも事実である。確かに高得点だけを狙うのであれば、超絶技巧ジャンプはとてつもなく有効であろう。しかしこれからは演技力そのものをもっと評価して行っても良いのではとも僕は強く思う。そのような意味で、僕は坂本選手が真の王者だと書いたのである。

もし十年後、坂本選手が今回と同じ演技をすれば、圧倒的なチャンピョンになっているかもしれない。いや、そうでないとフィギュアスケートが単なるジャンプ大会になってしまう。それならば別にスケートジャンプだけを競う競技を作ればいいのである。

とにかく、今回の坂本選手の演技は非常に素敵で魅了された。ぼくはあなたが真の王者だと思っている。坂本花織選手、おめでとう!

手段を選ぶことは、過程を楽しむことだ!

世間では「手段を選ばない」と言われることが多い。例えばお金を稼ぐこと、今取り組んでいる事で結果を出すこと。確かにお金を得る事だけが目的なら、あるいは結果を出すことだけが目的なら、手段を選ばない事が一番の近道であろう。しかし手段を選ぶにしろ選ばないにしろ、必ず過程と言うものが存在する。ならばその過程も楽しまないと損ではないか!さらにその過程が大きな充実とやりがいをもたらす。そしてその結果として成功すれば言う事はない。

僕らのような40代の日本人が受けた小中学校でのテストはどのようなものであったか覚えているだろうか?おそらく算数・数学のテストの解答用紙は答えの数字だけを書くようになってたはずだ。しかし現在の小中学校では、その過程の数式・計算までしっかりと書くようになっているらしい。つまり昔のテストは結果さえ合えば過程なんてどうでもよかったのだ。何なら鉛筆を転がして書いても、それがあっていれば正しいと評価される。そのような教育を受けた僕らの世代では、過程を軽視する、つまり手段を選ばないと言う人が多くてもおかしくはない。もしかしたら現在の日本における閉塞感はそのようなところから来ているのではないか?

誰だって楽しく生きたいと思っているはずだ。しかし実際は人生を楽しめている人は少数派のように思える。多くの人は「現実はそうではない」と考えているはずだ。しかしそのような現実を選んだのは皆自分である。もちろん全員とは言わない。育ってきた環境によって苦しい立場に立たされている人もそれなりにいるはずだ。しかし偏差値だけを求めて、高収入だけにこだわって過程をないがしろにしてきた結果、人生が楽しくないと言うのは少し違うと思う。繰り返し言うが、自分の力ではどうしようもなく苦しい立場に立たされている人も少なからずいる。しかし自分で選んだ生き方をして、現実はどうだとか言って楽しくないと言うのはおかしいのではと僕は思うのである。

「苦しい」とは決して「楽しくない」と言う事ではない。つまり「苦しい」と「楽しい」は両立するのである。僕自身、現在は何とかそれを両立できていると思っている。はっきり言って、現在はあらゆる意味で苦しい。しかし限りなく楽しくもあるのである。そのように感じられるのは、手段を選ぶことにこだわって来たからだと僕は考えている。もし結果を出すためには手段を選ばないと言う立場を取っていれば、今は単に苦しいだけだったかもしれない。人生は死ぬまで過程なのである。なので結果を出すことも非常に大事だが、それ以上に過程が大切だと言う事に気づかなければならない。手段を選んで過程を楽しんで、それこそシンジョイ(新庄並みにエンジョイする事)しなければならない。

心臓に毛を生やし、顔を変えて行く決意。

「顔を変える」と言っても、何も整形をするわけではない。なぜなら整形をして様になる男はビッグボス・新庄剛志だけだからだ。では僕はどのように、そして何のために顔を変えるのか?それは「生き方を変えることによって、顔を変える」と言う事だ。顔と言うものは、その人の生き方を良く表している。だからその人の顔を見ると、ある程度どのような人か、そしてどのような人生を送ってきたかと言う事が想像できる。なので、僕らしい生き方があれば、その生き方から来る顔と言うものがあるはずだ。だからそのような顔になれるよう真剣に生きて行きたいと思っている。

ではどのような顔を目指すのか?それは言い換えると、どのような生き方を目指すのか?と言う事でもある。別に若い顔になる必要はない。とは言え、若々しさは非常に重要である。しかし若々しさは、自分の精神に求めることにしようと思っている。これからどのように生きようと思っているかはかなりはっきりしている。しかしその結果、どのような顔になるかは自分でも分からない。しかし堂々と自信をもって人前に出られる顔になれるよう努力はしたいものである。

そして自分が目指す顔になるためには何が必用かは自分でも非常によくわかっている。それは「心臓に毛を生やす」ことだ。今の自分は、少しの事で不安になってしまうことがよくある。僕自身、かなりポジティブな人間ではあるが、それでもネガティブな思考になることも多々ある。しかしそのようにネガティブに考えて守りに入ってしまえば、自分の目指す顔にはなれない。心臓に毛が生えれば、顔も変わる。そう強く考えている。

お金で顔を変えようと思うのは三流だ。(いや、新庄剛志は超一流だが。)僕は心臓に毛を生やして、生き方を変えて、そのような生き方を顔で表現できるような人間になりたい。そのために数理物理の研究に打ち込み、そしてちょっとの事では動じない精神力を身に付けたいと強く思っている。

ITに疎い世代?

よく高齢者世代が「ITに疎い世代」と言われる。果たしてこの表現は正しいのか?僕はそれは違うと考えている。「結果的」に高齢者にITが疎い人が多いと言うだけであって、本質はそこではないと思っている。僕が考えるには、正しくは「挑戦しない人たち」、そして「リスクを取らない人たち」が結果的にITに疎い人たちになっているのだと考えている。そして自然と高齢者たちは若者に比べると余生が短いので、結果的にリスクを取らず挑戦をしないと言う事になっているのである。

なので、例え高齢者であっても挑戦的な人にはITに長けている人が多いはずだ。以前、高齢の日本人女性が独学でアプリ開発をして、アメリカ・アップル社の本社に招待されたと言う話を聞いた。高齢でありながらアプリ開発をするとは極めて挑戦的であり、かつ柔軟な思考の持ち主だ。このような老人を見ていると、例え歳を取っても柔軟である人の潜在能力は果てしないものだと強く感じる。逆に例え若くても、リスクを取らず挑戦をしない人は総じてITに疎いと言える。なのでITに長けているか?疎いか?と言う事は、年齢に関係しているのではなく、その人の挑戦力に関係して来るものだと僕は感じている。

そもそもITと言うものは、リスクの塊である。スマホをいじくっている限り、常にリスクは付きまとってくる。なのでリスクを全て避けようと思えば、スマホをはじめとするIT機器に触れる事さえできなくなる。しかし今政府が取り組もうとしているマイナポイント(これが2万ポイント(2万円)と非常に大きな額である)を受け取ろうとすれば、まずマイナンバーカードを発行して、かつキャッシュレス決済を利用しなければならない。この手続きをスムーズに行おうとすれば、IT機器を利用することは不可欠だ。そしてこのマイナポイント自体も、キャッシュレス決済を普及させようとすることが大きな目的だ。しかし世の中には、IT機器は使えないが、マイナポイントは寄こせと言う人たちがかなりたくさんいるみたいだ。このような人たちはそもそもこのマイナポイントの趣旨を勘違いしている。言い換えれば、「リスクを取らずにメリットだけ寄こせ」と言っているようなものである。もちろん現在のコロナ禍で困った人たちを助けようと言う趣旨も含まれているが、政府が狙っているのは、コロナ禍での救済とITシステムの普及を組み合わせることによって、その相乗効果を狙っているのである。

こんなことを長々と言ってきたが、そんなことを言う僕自身も5年ほど前まではIT音痴と言っていいほどのレベルであった。しかし今ではかなりITマスターになっている。そして単にスマホやパソコンを利用するだけではなく、学問的な研究に応用したり、プログラムを組んで利用したりしている。そのような僕を見れば、ITに年齢は関係ないと思ってくれるはずである。もちろん数学や理論物理のような紙と万年筆の世界は大好きである。しかしITにはITの面白さ、魅力がある。大事なのは一つの殻に閉じこもるのではなく、壁を作らずあらゆる分野に挑戦することだと僕は強く感じている。

なぜお酒を飲まなければならないのか!

僕はお酒はかなり好きな方である。なので何の意識も持たずに好き放題お酒を飲んでいれば、アルコール中毒の危険性があると思っている。なので自分自身である程度制限してお酒を飲むことを心がけている。とは言っても、最近は缶ビールを飲むことが非常に多い。初めは一缶だけと思いつつ、二缶、そして三缶と増えて行ってしまう。そして不思議な事に、何だかお酒を飲んだ後の方が調子が良く感じるのだ。それでさらに次の日にもビールを飲んでしまう。しかしお酒が体に良いはずがない。短期的には良いと感じていても、長期的に飲み続ければ必ず体を痛めてしまう。

そこで大幅な禁酒を始めることにした。そもそも僕はお酒を飲むために生きているのではない。数学と物理の研究をしたいのだ。昔は適量のお酒は体に良いと言われていたが、近年はお酒は微量でも良くないと言う事が医学的にも言われている。どうやらアルコールは神経毒であるらしい。なのでほぼ間違いなく、神経の塊である脳には良くない。もしお酒を飲んだ方が調子が良いと言う気がするのなら、お酒を飲まなくても調子が良い体にしなければならない。

しかし人と付き合いながら飲むのは非常に楽しい。なのでごくたまに人との付き合いで飲む機会があるときは、その時は飲むのも良いと思っている。そんなに頻繁に飲みに行くわけではないし、ましてや現在はコロナ禍と言う事もあって飲みに行く気にもなれない。

最近、お酒が非常に安く手に入ることが社会問題化している。もちろん物にもよるが、9%の酎ハイがコンビニで百数十円で手に入る時代である。ビールも(第三のビールだが)500ミリ缶が130円ほどで手に入る。はっきり言って金銭的なハードルはないに等しい。しかし安いからと言って調子に乗って飲み続けてしまえば、結果的に体を壊すなどしてかなり高い代償を払うことになってしまう。なので基本は禁酒的スタンスを取りながら、ごくたまに美味しい酒を飲むのが良いのではないだろうか?