月別アーカイブ: 3月 2015

報道ステーションでの事故について

最近、報道ステーションでのハプニングが話題になっている。解説者の古賀氏が報道の趣旨とは完全に離れている個人的な主張を行ったことだ。ここで問題点を整理してみよう。

まず古賀氏を擁護すべき点は、

・発言の自由に関すること。

報道において、発言内容を圧力などによって制約を受けることはあってはならない。古賀氏の発言内容はともかく、個人の意見を主張する自由がある。

問題点は、

・まず公共の電波によって秩序を乱す行いをされたこと。

確かに報道の自由があり、制約を受けないとは言っても、もっとほかの手段があったであろう。古賀氏の主張は公共電波の報道ステーションではなくても、他のメディアでもできたはずだ。そのメディアとして古賀氏が報道ステーションを選んだというならば、それ以上言い詰めることはないが。

・手段内容が卑劣であること。

古賀氏の番組内での主張の手段が卑劣である。事前の会話の内容を録音していると、脅しともいえる発言によって古館氏に迫っている。録音することを否定する訳ではないが、それを脅しともいえる使い方をしていることは卑劣としか言いようがない。

もっとも、自由主義国家の報道として、このような事態は必然的に発生するのかもしれない。しかし個人の主張の在り方として、その主張の自由と適切な発言方法を深く考えなければいけない。

中国が東アジア経済共同体を提唱

最近になって中国の攻勢が激しい。アジアインフラ投資銀行(AIIB)に続き、今度は東アジア経済共同体を提唱してきた。ASEAN・日本・韓国と中国が連携をとり、東アジア経済圏を強化するというものだ。おそらくヨーロッパ共同体(EU)を念頭に置いたものと思われる。この様なことは本当に可能なのだろうか?

韓国は喜んで推進するだろう。しかし日本及び東南アジアと中国の間では軍事面を含む根深い障害が残る。今回の中国の提唱に日本という国名を明白に出したのは、戦後70年を迎える日本の談話発表などに対してのけん制の意味合いもあるものと思われる。

しかし歴史にはしばしば断層が生まれる。現在の東アジアの経済圏、特に中国は連続的に大きな成長を見せている。確かにこの成長が連続的な推移を見せれば中国の覇権は近い。しかし断層は予兆もなく生まれる。その時に中国についていることによって、大きな制約になることも考えられる。

中国は今の韓国を拡大の足場にしようとしている。韓国も喜んで中国の足場になり、それらの中国の動きに乗ろうとしている。

はたして中国の提唱を信用することができるのか。50年後ならわからない。しかし少なくとも現在の中国に対しては全てを疑ってかからないと日本が潰れてしまうかもしれない。

選挙権のない袴田巌さん

僕のブログでは何度か袴田巌さんについて述べてきた。殺人事件冤罪で元死刑囚の方だ。今では袴田さんの無実は疑うことのない事実だと信じられているが、最近その袴田さんが今でも選挙権がないままであることが明らかになった。

現在の法律では禁固刑以上の刑に処されている人は選挙権が剥奪されることになっているが、なぜ無実が明らかになった袴田さんの選挙権が戻されないのか。それは袴田さんに対して裁判所が出した判決は再審の決定であり、無罪を言い渡した訳ではないからである。少なくとも法的にには袴田さんはそういう位置に立たされている。

袴田さんの一連の出来事は日本のシステムの縮図と言ってもいいのではないかと思う。誘導自白についてもそうだし、今回の選挙権の問題もそうだ。

法は本来人々を守るために存在している。しかし今回の袴田さんの件もそうだが、法を守って人を守らないという事態に陥っているのである。本末転倒ではないか。法に関わっている人は、「システムを見て人を見ず」という状態に陥ってないだろうか。

袴田さんの数十年の拘禁による犠牲によって、日本国民が気付いたことは数多くある。取り調べ全面可視化などへの動きも、袴田さんがきっかけになって大きなうねりになりつつある。われわれの良い社会への一歩は、袴田さんのような犠牲のもとに成り立っていることを忘れてはいけない。

アジアインフラ投資銀行をめぐって

昨日のブログで、韓国のアジアインフラ投資銀行(AIIB)参加について書いた。今、中国はAIIBの創設メンバーを募っているのである。恥ずかしながら、今日あることを知った。イギリスをはじめとするヨーロッパ数か国も参加を表明しているのだ。アジア地域の覇権をめぐる動きと見ていたので、ヨーロッパの事情まで目が届かなかった。

イギリスの参加についてはアメリカが強烈に非難しているみたいだ。しかしイギリスは経済的・金融的な理由で参加を決めたらしい。金融はイギリスにとって中心的存在でもあるので、損得勘定で考えると参加するというのは当然の結果のようだ。

しかし、イギリスのケースと韓国のケースを同一目線では語れない。イギリスにとって中国とは地政学的にあまりかかわりがないのに対して、韓国は地理的に隣国的存在なのである。中国との関係には防衛上の影響も考慮に入れざる負えない。

日本は現在慎重に考慮しているみたいだ。しかしおそらく参加はしないだろうと思う。その理由は、アメリカとの関係、防衛上の関係、経済上の関係を総合的に考えてリスクが高いからだ(あくまで僕の個人的見解だが)。

今回のAIIBに関して一番焦っているのはアメリカだ。中国の影響力の拡大は、必然的にアメリカの影響力の後退を意味する。したたかな中国に対してアメリカは躍起になっている。

AIIBは経済の問題だが、長い目で見ると中国の経済力の影響力の拡大、そしてそれは軍事的影響力の拡大へとつながっていくことは容易に予想できる。しかし地理的に離れているヨーロッパ諸国には今一つピンと来ないのだろう。

この様な状況の中で日本はある意味特殊な位置に立たされている。もしかしたらこれから日本がどのように中国と関わっていくかによって、中国をめぐる世界の動きが左右されるのかもしれない。

アジアインフラ投資銀行参加、韓国の行方

韓国が、中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)への参加を決定した。最近は韓国が(AIIB)に参加するのか、アメリカの防衛システムを採用するのか、注目が集まっていた。単純に言うと中国側につくのか、アメリカ側につくのか、という話である。

韓国は二股外交政策をとってきた。経済・政治では中国よりをとりながら、防衛・安全保障面ではアメリカよりをとるというものだ。韓国はこの中間的位置をとることに、アメリカと中国のいいとこ取りをしようと考えていたのだ。

しかし最近になって様相が変わってきた。韓国がアメリカと中国の間で板挟み状態になってきたのである。中国がより韓国に近づいてくる。それにアメリカがしびれを切らしてきたのだ。

今回のアジアインフラ投資銀行(AIIB)に関してだが、中国はこれまで発展途上国に対して投資と見せかけて、投資先から資源などを詐取するだけし尽して引き上げていくということを繰り返し、世界から不審の目で見られている。しかし今の中国は経済規模は世界二位となり、韓国にとっても中国と親密に付き合うことはおいしい話だと思っているのである。

韓国が中国寄りに動くにはもう一つある。反日運動である。韓国にとって中国は敵の敵で味方なのである。反日で共闘するにあたってこれとない同士なのである。

今韓国がアメリカと距離をとって一番喜ぶのは中国だ。韓国にとって経済面のことを考えて中国に近寄っているのだろうが、中国にとっては防衛面において非常においしい話なのである。何しろ軍事前線が朝鮮南北38度線から韓国までの日本海まで拡充されるのであるからこれほどおいしい話はない。

アメリカも最近になってこれらの韓国の動きに対して危機感を持ち始め、アメリカ側としても韓国と距離を置き始めているように感じる。それに対して日米関係は相対的に強固になっていくのは自然な流れであろう。

第二次大戦後、国際的な対立関係は米ソであった。しかし現在はロシアは経済的にも軍事的にも影が薄くなり、米中が対立関係の中心になりつつある。しかし一線を越えずに何とかとどまっているのは、中国にとって現在の巨大な経済力を失いたくないからかもしれない。

今韓国から東・南シナ海にわたっては中米の対立最前線になっている。そこで中国が軍事面においても韓国を取り込めるかどうかは大きな影響を与える。現在慰安婦問題などで日韓は対立を深めつつあるが、防衛面でも対立すれば東アジアの対立戦線の最前線は必然的に日本になる。

これらの韓国の一連の行動は対立の拡大になるのか、韓国の自滅か。朴の好き嫌い外交には呆れてしまうが、韓国が次期大統領政権になったときこれらの動きが継承されるのか、それが大きく行方を左右するだろう。

沖縄基地問題について

最近、また沖縄基地問題が議論されている。普天間基地から辺野古への移設問題である。沖縄は戦後、日本の防衛政策の犠牲を強いられてきた。沖縄県民には日本国民として本当に申し訳ない気持ちだ。

なぜここまで沖縄ばかりが防衛の犠牲になるのか?それはもちろん歴史的な理由が挙げられる。第二次大戦の沖縄戦を経て日本が敗戦し、沖縄は日本に返還されるまでアメリカの占領下にあった。そこでアメリカは沖縄に基地を作り、アメリカ軍の西太平洋の要にした。

しかし現在では、もっと重要な理由がある。地政学的理由だ。現在中国と軍事的対峙をするにあたって沖縄は地理的にその最前線なのである。それが基地が沖縄になければならな一番の理由だ。中国との有事が起きれば、真っ先に攻められるのは沖縄であることは明白だ。それを防ぐためにもアメリカ軍は沖縄を重要視する。沖縄の基地は中国に対して抑止力になっているのである。

もちろん沖縄でなくてもいいものに対しては、本州が負担を受けなければならないだろう。本州の人間は、沖縄に負担をなすりつけたい訳ではないのである。

しかし今の普天間基地の立地環境は異常である。街の真ん中に基地が存在するのである。確かに辺野古へ移設すれば、ある程度の自然環境破壊は起こるだろう。しかし先ほども述べたように地政学的にそうならざる負えないのである。

民主党政権下で「最低でも県外」と鳩山が到底無理なことを言ってしまったがために、話はこじれてしまった。全くこの鳩山の発言は人気取りとしか思えない。防衛戦略上の構想など全く踏まえてないのである。

沖縄に基地を作るのはやむ負えない。しかしそれ以外のところに住んでいる者は、基地問題以外のことだけでも負担する覚悟でいなければならないのではないかと思う。

税金は嫌、でも厚い福祉を望む日本人

税金をできるだけ払いたくないと思っているのは、日本だけでなく世界共通かもしれない。そしてできるだけ手厚い福祉を受けたいというのも同じかもしれない。でもこれはあまりにも都合の良すぎる考えではないか。

今の日本は北欧には遠く及ばずとも、世界の中ではかなり手厚い福祉がある方だ。お隣の韓国などは福祉などあってないようなもので、自殺者が続出である。手厚い福祉など、欲を言い続ければきりがない。少し話は違うが、新卒で就職活動している学生が、「貴社の福利厚生はしっかりしていますか?」と面接で質問する人もいるらしいが、人間は福利厚生によって生きているのではない。もちろん福祉が必要ないと言うつもりはないのだが。

ところで福祉は言うまでもなく税金によってまかなわれている。もしそれだけの手厚い福祉を望むのなら、それだけの税金を払うのが筋だ。北欧の福祉が理想だと言われるが、北欧の消費税は25%だ。しかし北欧の人の多くは納得して税金を払っているらしい。

税金を払うのは嫌だが、福祉は手厚く受けたい、というのはそもそも矛盾しているのである。北欧のように高税率、高福祉というのはそれはそれで素晴らしいが、日本は中税率、中福祉というところではないか。どちらがいいというわけではないが、日本のようなやりかたも一つのやり方として悪くはないと思うのだが。どうだろうか。

アメリカにおける「司法取引」

アメリカの司法制度の一つに「司法取引」というものがある。司法取引と言っても内容は様々で、一番典型的なものは、「お金を出す代わりに刑を軽くする」というものだろう。

それ以外にも「他の事件の証言をする代わりに減刑する」などというものがある。しかしこのことによってウソの証言がなされ、冤罪の原因になることもあるみたいだ。

巨大先進国アメリカでこのようなことがまかり通っていることには、本当に驚くばかりである。アメリカのルールは世界のスタンダードとみなされることが多く、模範例となることがあるので、このような司法取引のような歪んだ制度は見直してほしいものである。

しかし見直される可能性はかなり低いだろう。アメリカの一番の悪しき例は銃社会だ。これも多くの市民が良くないと思っているのだろうが、改善はほとんど進まない。原因は全米ライフル協会によるロビー活動、政治家に対する圧力と言われているが、アメリカ国民も銃がないと身を守れないと洗脳されているようにも思える。もちろん銃が身を守る例より、銃によって犯罪を犯してしまう例の方が圧倒的に多いのだが。

しかし司法取引も銃問題も全く改善されないとは思わない。何しろ南北戦争により奴隷を解放してしまったようなお国柄である。一度火がつけばどのようなことが起こるかわからない。

アメリカの素行は世界が注目している。だからこそこのようなおかしな慣例は今すぐにでも見直してほしいものである。

インドのカンニング事件

インドの高校での集団カンニング事件が話題になっている。それによってなんと600人が退学処分になったそうだ。カンニングは保護者も関わっており、この大規模カンニング事件の様子が写真で撮られているが、良いとか悪いとかを超えてもう圧巻としか言いようがない。そもそもこの生徒たちは学校を勉強を学ぶ場とはかけらも思っていないのだろう。

僕が大学院生時代、ティーチングアシスタントという、先生の授業を補佐するバイトをしており、試験監督なども任されていた。

医学部生の数学の定期試験の試験監督をしていた時、先生は席を外しており、監督現場から離れて先生の所に行ったのだが、そのとき先生は顔を真っ青にして試験現場に駆け付けた。その理由はカンニングされたらどうする、というものであったが、医学部生は圧倒的にカンニングする確率が高いのだそうだ。しかも医学部生は集団でカンニングするというのが常識らしい。医学部生も皆が皆そういう人ではなかろうが、彼らにとって一番の目標は医師免許を取得することであり、そのためには手段を選ばないということかもしれない。

昔、中国では科挙という役人への登竜門の試験があった。もう数百年以上前、千年以上前かもしれないが、そんな大昔にもカンニングは存在しており、世界最古のカンニングペーパーというものもあるらしい。

カンニングはもちろん推奨されるものではないが、このインドのカンニング事件の壮大さには圧倒され、ある意味新興国のエネルギーの巨大さを見たように思える。

「聖戦」という名の虐殺

戦争を起こすにあたって「聖戦」という言葉を掲げる国、および過激派組織がある。この聖戦という名の下の虐殺は今に始まったものではない。宗教が存在する時代のどこかに聖戦が勃発する。

現在で言えばイスラム国(ISIL)がそうであろうか。

聖戦という言葉を掲げることによって、殺りくを美化するということはあってはならない。美化されるような殺りくなんて存在しない。

聖戦の一番怖いところは、殺りくを美化することによって精神的な歯止めが利かなくなることである。聖戦は無制限な殺りくを助長する。人を殺すことに達成感さえ与えてしまうのである。

聖戦といえば最近はイスラム過激派組織の専売特許みたいになっているが、歴史を紐解くと決してイスラムだけでなく、キリストも、あるいは他の宗教もやっていたことである。

そういえば、3月20日はオウム真理教の地下鉄サリン20年目であった。このオウムのテロも聖戦的な要素を帯びている。人を殺すことによって救済されるという、一般市民には理解しがたい教義がまかり通り、オウム周辺では日常的に殺人行為が行われていたのである。

宗教組織は社会の中で独立した色彩を帯びており、公権力の介入は極力控えられている。しかしその独立された影の中で危険な色彩を帯びていく宗教団体はいつの時代にも存在する。

聖戦、それは人類平和の完全なる敵である。聖戦で救われるものは何一つない。非人道的な集団がある限り、必要最低限の戦争は必要悪かもしれない。しかし聖戦だけは決して許してはいけない。