月別アーカイブ: 5月 2017

章男TOYOTAが面白い。

今、豊田章男社長率いるトヨタが面白い。

あくまでも外から見た素人の主観でしかないが、豊田章男氏が社長に就任してから、トヨタは大きく変わったと感じている。もちろん、純利益が2兆円にまで大きくなったと言うことなど、ビジネス的に大成功しているということもあるが、そんなビジネスがどうのこうのという問題ではなく”面白い”のである。

章男氏が社長になった当時、僕はどうせトヨタの御曹司が社長になって、良くない方向になっていくのではないかとたかをくくっていた。ところが章男氏が社長になって3年ほど経つと、会社はビジネス的にも上手くいっているようであり、それより何よりも面白くなってきたのである。

「面白い商品を出す、面白い会社、面白いことにも挑戦している」

僕自身、トヨタの車と縁があるとは言えないが、はたから見ていても今のトヨタ・レクサスの車は非常に魅力ある。車はエンジンだ、質感だとは言っても、第一印象のデザインがよくなければ興味が湧かない。そのデザインを見ても、今のトヨタ・レクサスは非常にかっこよく、大人っぽい。もちろん機械的な質に関しては言うまでもない(と思う)。

最近では、レクサスがボートを製品化するとニュースが出た。ラグジュアリーボートである。おそらく値段は億するであろう。無茶な気もするが、今のレクサスならあり得るような気もする。

今のトヨタを一言で表すなら「無難な車から、面白い製品へ」ということになるのかもしれない。

出口だけでなく、ブラックボックスを理解することも重要だ。

最近、何もかもがブラックボックス化されて、ボックスの中では何がなされているかには興味がなく、出口から出てきた結果だけを見て判断される風潮がある。これにはボックスがあまりにも高度複雑化されてきたこともあるが、複雑になったボックスとは言え、ある程度の概要を知ることは可能だ。

そのようなブラックボックスのうちの一つが、最近話題のAI(人工知能)であろう。AIのできる事を見ていると、本当に”知能”であるような錯覚を覚える。極端に言えば”AIは何でもできる”という錯覚に陥りがちだ。しかしAIの中身・仕組みをある程度知ると、AIは知能ではなく”知能もどき”であることに気付くであろう。

最近ではAIによる医療判断までできるようになってきた。しかしAIの仕組みを知ると、AIが得意な事、不得意なことの傾向が見えてくる。不得意なことに関しては、人間の足元にも及ばない。

得意とされる学問でさえも、東ロボ君(AIによる東大合格を目指すロボットのプロジェクト)と言うものがあり、それでも東大に合格できるかどうかである。”所詮”東大入試である。研究者レベルから比べると、お遊び程度の問題と言う意味で”所詮”と書いた。

AI評論を見ると、大きく二つに分かれる。システムを知っている人の評論と、出口しか見ない人の評論だ。僕は絶対に”システムを理解している人”の評論を聞くべきだと思う。出口しか見ない人の評論は、単なる想像でしかない。

ブラックボックスと言うものは非常に便利だ。仕組みを知らなくても望みのものを出すことができる。しかしそれは危険と隣り合わせである。自分が何を利用しているかも理解していないのである。そして何でもできる気になる。しかし本当は何もできていないのである。

しかし多くの人はそんなことはどうでもいいのかもしれない。便利でさえあればいいのかもしれない。しかし人類が知的活動を何も知らずに生活するのは、知的生物である人間の生活行動として何かが欠けているように思えてならない。

自動車評論に対する先入観?

僕は本屋さんでの立ち読みがほぼ毎日の日課になっている。ジャンルはファッションから時計・自動車・釣りなどのアウトドア関連の雑誌など様々だが、立ち読みではできるだけ、科学などの僕の専門分野の本は読まないようにしている。

その中で自動車に関する雑誌を立ち読みしていていつも気になるのだが、ほとんどの自動車評論家は、ドイツ車、特にメルセデスベンツ・BMW・アウディ(VWを含む)を絶賛していて、それに対して日本車は詰めが甘いと批判する人が多い。というより、もうそれが自動車評論のお決まりパターン化している。

僕自身、そんなドイツ車に乗っているわけでもなく、自動車評論をできる立場でもなんでもないが、そのような自動車評論家の評論の根底には、ドイツ車(ヨーロッパ車)がありき、それに対して日本車はどこまで近づけているか、という視点で評論されているようでならない。もちろんドイツ車が最終地点にセットアップされているならば、日本車は確実にその下に位置することになる。実際ドイツ車の方が良いのかもしれないが。

しかし、評論の視点は多面的でなければならない。質感以外にも燃費・安定性・故障の少なさなど、探せばいろいろな視点が見つかる。しかしほとんどの評論家は同じような視点で、同じようなコメントをマニアックな用語で述べている。そもそも皆同じことを言うならば、何人も自動車評論家はいらないと思うのだが。それとも御用評論家なのか?

この様な状態なので、最近は自動車雑誌を見ても、写真を眺めてうっとりすることはあっても、評論を読む気にはなれない。どうせいつも通りマニアックな言葉を使ってマンネリ化した評論に終始しているのだろうと。

これらの僕の見解は間違っているかもしれない。いや、自動車雑誌ファンからすれば「お前は何もわかっていない」と言われるのはわかっている。しかし自動車評論家の評論に”多面性”という視点が欠けていることは確実だと思う。

体のコントロール、頭のコントロール。

自分の調子を把握するのは、意外と難しい。いや、それが簡単にできる人も多いのかもしれないが、僕にとってはかなり難しい。そしてさらに、自分の調子を把握して、それをもとにコントロールしなければならない。これも簡単にできる人は多いのかもしれないが、僕にとっては至難の業だ。

自分の調子と言っても、大きく二つに分かれる。体の調子と頭の調子。体のコントロールは筋トレでもしていくらでも強固にできるが、僕にとって手ごわいのは頭(脳)の調子だ。

頭の調子を整える上で一番重要になってくるのは”睡眠”であろう。僕にとって、この睡眠のコントロールが難しいのだ。コントロール不能と言ってもいいだろう。

上手く睡眠をコントロールできたときは、一日の質と量が違う。睡眠に一日がかかっている。

一日は寝る前に始まっている。睡眠は僕にとって一番の勝負時だ。適切な睡眠が取れるかどうか。本当に普通の人にとってはなんてことのないことかもしれない。しかし僕にとっては一大事なのである。

ちなみに体のコントロールはバッチリである。

体と頭は車の両輪である。双方上手くいってこそ、飛躍的なパフォーマンスを発揮できると考えている。

金曜の夜、街の中国人パワーに圧倒させられる。

26日金曜日、大阪に用事があって、夜に難波をぶらついた。最近何度か難波に行くことがあったが、毎回感じるのが来日中国人の圧倒的パワーだ。中国人の爆買いが一時期話題になり最近は下火になったと言われるが、そんな現在でもまだまだ健在であるように感じた。

客が中国人なら、店員も中国人だ。ブレスケアを買おうとドラッグストアに行って店員に尋ねると、対応する店員までもがほとんど中国人なのだ。戎橋筋・心斎橋筋は中国人でごった返している。店の看板にはどこも中国語表記であふれている。

普段は神戸三宮で事を済ますことが多いが、神戸と大阪では国際度が桁違いに違う。難波を行きかう中国人が皆非常に活発的に見えたのは気のせいか、それともそれが今の中国の勢いか。

中国人の爆買いで難波は潤っているように見えたが、果たしてこれがいつまで続くのか。中国人パワーに圧倒された、難波での金曜の夜であった。

アマチュアのトップか、プロの端くれか。

アマチュアとプロの違いは何か?という問題は単純ではない。その境目が曖昧なものから、将棋や野球のように明確に規定されているものもある。

とは言え広く一般に、”お金をもらっているのがプロ”という定義もあるが、それならば、給料をもらっているアルバイトもプロになってしまい、明らかに違和感を感じる。

プロとは何か?という定義はさておいて、プロとアマチュアの間には大きな断層が存在する。多くの分野で、アマチュアのトップでもプロの端くれには太刀打ちできないことが多い。その最たるものは、今話題の将棋であろう。

将棋は4段からがプロである。3段まではプロの前段階の奨励会員と言う身分である。言わばセミプロと言う感じかと思うが、完全なアマチュアとは違う感じがする。アマチュアの”4段”が、奨励会の”5級”と同じくらいだと言う話を聞いたことがある。即ちトップアマチュアでも奨励会の一番下にほぼ太刀打ちできないと言うことであろう。

プロとアマチュアのもう一つの大きな違いは”プロ意識”であろう。このプロ意識のあるなしは、その分野で戦っていくうえで大きな違いを生む。取り組む姿勢・時間・こだわりなどによって、プロとアマチュアの間にあった差はますます大きくなっていく。

趣味でやればいいという人はともかく、その分野で戦っていき、トップを目指す者としては、分野を問わず”プロ意識”を持つことは非常に重要だ。そういう意味で僕は、アマチュアのトップを目指すことより、まずはプロの端くれを目指すことの方が計り知れないくらい大きな意義があると感じている。

信頼できる政治家がまた一人亡くなった。与謝野馨氏。

また信頼するに値する一人の政治家が亡くなった。与謝野馨氏、78歳であった。

与謝野馨氏は物静かという印象が大きいが、政策通として名が通っており、日本の政界にとって非常に貴重な人材であった。

これまで、財務大臣、内閣官房長官などの要職を歴任し、政界では非常に大きな存在であった。また物静かな印象のある一方、冷静で的確な判断を下す信頼できる政治家の一人だという評価もあったと思う。

また与謝野馨氏と言えば、著名な歌人・与謝野鉄幹・晶子夫妻の孫であるということでも非常に有名であった。

現在の政界を見ていても、与党・野党双方とも、一方的なごり押しで事を進めたり、またノリで批判したりといった好ましくない状況が散見されるが、そのような時代だからこそ与謝野氏のような冷静に判断できる政治家の必要性は非常に高くなっていると思う。与謝野氏の死去は本当に惜しい。

与謝野馨氏のご冥福を祈ります。

今までやってこなかった新鮮さに取りつかれる。

最近、コンピューター関連の事が面白い。今まではずっと数理物理(数学と物理)しか眼中になくて、その他のことは余力でという感じだったが、今、コンピューターにはまっている。Python(パイソン)などのプログラミング言語、ディープランニング、LinuxなどのOS、面白いものは手当たり次第に当たっているが、その先のプランも考えている。

とは言え、やはり数理物理はゆずれない。物事に優先順位を付けることは非常に大事だが、最近は面白いことには全て全力で取り組んでみようと思っている。

とは言っても一日は24時間、睡眠を省くとさらに短くなる。全てを全力で取り組むためには一日の計画をしっかりと考えなければならない。睡眠のコントロールが苦手な僕にとっては至難の業だ。

とは言え、この歳になって新鮮さを感じることは幸せだ。今は遊びの範疇を出ないかもしれないが、それを超えようとも思っている。

人生、修行とエンジョイのバランスが大事だ。修行もエンジョイするくらいになれば一人前かもしれない。

昔、阪神タイガースにいた新庄剛志選手は、常にプレーを楽しみ、ファンにも楽しませてくれた。シンジョイ(新庄がエンジョイする)と言う言葉があるくらいだ。いつかはその境地にたどり着きたいものである。

本は財産。本にかけるお金は人生への投資。

世の中を見ていると、本を読む人と読まない人が極端に分かれるような気がする。もちろん本にお金をかけて読まない”積読”は少し良くないかもしれないが、全く本に接しないよりかはかなりましである。特に専門書は、読むのにかなりの時間と労力がいるので、必然的にある程度”積読”になってしまう。しかし、積読状態である専門書は、研究への自由度の広がりになる。

本の価値は読んだ人にしかわからない。価値がわからないから読まないのか、読まないから価値がわからないのか、鶏が先か卵が先かという問題かもしれないが、人生を価値あるものにするためにもある程度の読書は必要だ。

そして読む本の”質”も重要だ。基本的基礎的文献を読まないで、自己啓発本などの表面的な手っ取り早い本ばかり読んでいては薄っぺらい人間になってしまう。何をするのにも、苦しんでこそ得られるものがある。

ただ、苦痛を感じながら読むのもあまり意味がないのかもしれない。やはり読書も楽しんだ方が圧倒的に良い。そのためには「自分の興味は何か?」ということを自分で認識しなければならない。

本への投資は自分への投資。本は財産。

質の良い価値ある人生にするためにも、人生のお供に質の良い価値ある本を。

結果ありきか?過程ありきか?

物事に取り組むときに、まず目標を掲げることが多いだろう。もちろん目標を掲げることは、非常に意義のあることである。

しかしその目標が、中身のあるものか、外見だけのものか、それらによって大きく意味合いは変わる。

外見により目標、例えば起業であれば「何億円稼ぐ」とか「3年で株式上場する」とかであるが、それだけでは物事は全く進まない。まず「何(なに)で」ということを明確にしないとスタートは切れない。

よくビジネスで成功するためには「”何で”にこだわらないことが大切だ」と言われるが、それは「何で」と言う手段(過程)をいくつも思い描いていて、どれで進めるかこだわらないという意味だ。しかしこの「何で」という手段を定めることが一番難しい。

とは言え、手段を一つに絞る必要は何もない。いくつかあれば、それを全て進めるというのも一つのやり方であろう。全てに全力をつぎ込めるのなら、二兎・三兎の獲物を追えばいい。そうすれば中には大谷翔平のごとく、二刀流・三刀流で活躍する者が現れるかもしれない。