月別アーカイブ: 2月 2019

データを活用するか?データに依存するか?

近年、ますますデータの重要性が高まっている。特にビッグデータと言われる種類のものが様々な分野で活用され、またそのようなデータが高額で取引されているようである。これらのデータは全体の傾向を把握するのには向いているが、個人にとってこれらのデータとどう向き合うべきなのか?と考えさせられる。

僕自身はデータ万能主義には異を唱えている。とは言え、データの有用性を否定する訳ではない。データは確かに強力な武器である。ビジネスからスポーツまで、近年はデータが強力に威力を発揮している。だからデータが威力を発揮するところでは積極的にデータを活用すべきだと思う。

しかし個人が生きる上で、データをどれくらい活用すべきなのか?非常に考えさせられる。結論から言うと、「データを活用するのは良いが、データに依存すべきでない」ということだ。そして、データは必ずしも万能ではないということだ。もしデータが示唆することが100%正しければ、人間は何もしなくて良い。データに盲目的に従っていけばよいだけの話である。しかしこうは問屋が卸さない。データが完璧でも、データを解釈するのは人間である。もちろん最近は、AIによる医療画像診断などコンピューターが解釈しだしている。そういうことならデータを集めそれをコンピューターに診断してもらえば、それに盲目的に従えばよいのか?いや、必ずしもそうではない。そこに人間が生きるということの深さがある。

人間には自由意思がある。この自由意思というものを巡っても最近は議論があるようだが、少なくとも現時点では人間の自由意思を尊重すべきだと考えて良いだろう。自由意思が自由であるためには、データに盲目的にはなるべきではない。もちろんある程度活用するのは良いとは思うが、自分の内部で思考し出した結果が自由意思である。データに依存し自由意思を無くした人間は人間と言えるのか?僕はもうそれは人間ではないと考えている。例え人間だとしても、精神的には奴隷である。もちろん、何も考えないで楽に生きたいと考える人がいれば、奴隷になるのも一つの手かもしれない。しかし自分の意志に従って前に進もうとしている人は奴隷になるべきではない。これから人間はこう二極化してくるのではないだろうか?

データは万能ではない。いや、もしかしたら万能に近いこともあるだろうが、万能だからと言ってそれが即データに従うべきかと言えばそうではない。我々は人間である。自分が人間としてどう生きるべきか?以前ならそんなことを考えなくても人間らしく生きる事は出来たが、コンピューター解析が異常に発達したデータ万能社会においては、そのような事を真剣に考えて生きて行かなければ、人間性を失ってしまうことになる。

時には不調な時もあるさ!

好不調の波は誰にでもある。しかし人によってその波の大きさは違うようだ。波の変化が激しい人もいれば、かなりフラットに近い人もいる。できればフラットな方が良いが、重要な事は“高いレベルで”フラットにいることだ。低いレベルでフラットは誰が見ても良くない。

僕自身も結構波はあるので、できるだけ高いレベルでフラットにいれるように試行錯誤しているが、やはりそんなに簡単にはなれない。高いレベルでいるためには心身のコンディションを整えなければならない。そのためにお酒は出来るだけ飲まないとか、コーヒーも出来るだけ控えるとかの努力をしている。やはり頭脳を最高のコンディションで使って生きるためには、お酒などは飲まないに越したことはない。お酒を飲むことによってリラックス効果があるとか言われるが、お酒を飲まないでリラックスが出来ればそれが一番良い。

好調な時には大体何をやっても上手く行くし物事も進むが、悩みどころは不調な時にどう過ごすかということである。不調な時は何もしないでゆっくりすればいいとは思うが、それに甘んじて何もしないでいるとズルズルと滑り落ちて行くように思う。だから不調な時は不調な時なりにできる事をしようと思っているが、なかなかそう実行できないでいる。何とか良い解決策はないだろうか?

でも不調な時があるのは仕方がない。「時には不調な時もあるさ!」と開き直って羽を伸ばすのも良いかもしれない。今やる事は大事だが、時には「明日やろう」と思うのもいいかもしれない。

異分野との相乗効果。

僕は最近、専門外の事にも積極的に取り組もうとしている。例えば経済学や歴史などの学問から、筋トレやジョギングといったちょっとしたスポーツまで、できることは出来る限り挑戦しようと思っている。もちろん異分野の事に取り組もうと思っても、面白くなければ続かない。しかし経済学も歴史も非常に面白い。筋トレは体を引き締めるために必要だし、ジョギングをすると頭が良く働く。そしてこれらの事を行うことによって、専門の事に対しても相乗効果によって良い影響が表れている。

そして相乗効果を狙うのなら、できるだけ専門から離れていることを狙うほうが良い。学問を専門にしているのならばスポーツをやるとか、あるいは茶道なども良いかもしれない。さらに二刀流ではなく、三刀流、四刀流と手を広げるのも良い。もちろん手を広げ過ぎて専門が疎かになってはいけないが、しかし少し専門に影響が出るくらい手を広げるのが良いと僕は考えている。

iPS細胞の山中伸弥教授は、大学時代ラグビーをやっていたそうだ。ラグビーとはまた激しいスポーツをやっていたものだと思うが、そのように専門とは全くかけ離れたことをすることによって、普段とは違う頭を使うものかもしれない。僕自身は学生時代は全くスポーツをやっていなかったが、今になって学生時代にスポーツに打ち込むべきだったと少し後悔している。とは言え、自分の過去について特にネガティブに思うことはほとんどないので、過去の自分はそれはそれで良いのだ。

スポーツをやって頭を活性化させて数学に打ち込む、というくらいの事をやっても良いのだと僕は最近思っている。学問だけに限っても、学際分野というのはいつの時代でも強い。スポーツでも十種競技というものがある。究極はそれぞれの競技だけを見てもトップである十種競技選手だと思う。実際の十種競技ではそれはかなり難しいが、専門を軸として手を広げて行けば、少なくとも専門に関してはトップである十種競技選手になれる可能性はあるのではないだろうか?

“自分を守らない”自己チュー。

誰かを守るということは非常に重要な事だ。それと同様に自分を守ることも非常に重要かもしれない。「命あっての物種」という言葉があるように、自分が生きていない限り何もできない。「生きるために自分を守る」ということは、人間に限らずどの生物でも言えることだ。

しかし自分を守るということは結果論であって、それ自体が一番の目的になってはいけない。自分を守る事ばかり考えていると、何もかもが死んで見えてしまう。自分以外の事が見えなくなる。他人の事を考えることが出来なくなる。自分の生命感を保つためには「自分を守らない」ということが大事なのである。

「自己チュー」は否定的に捉えられることが多いが、僕は自己チューも悪くないと思う。自分を守らないで殻を飛び出し前に進むためには、自己チューが不可欠だと考えているからである。自己チューはわがままではない。いや、わがままな自己チューな人も世の中にはたくさんいるが、自己チューになって自分の成し遂げる事を達成することが出来れば、それによって周りのたくさんの人を助けることが出来る。口だけやさしい事ばかり言って何もしない人は、はっきり言って害悪でしかない。真の幸せは、“自分を守らない”自己チューから生まれると僕は思っている。

自己チューは初めは必ず嫌われる。はっきり言ってこのバッシングはかなりきつい。状況的にも精神的にもかなり追い込まれる。しかしこの状況を脱するためには結果を出すしかない。自己チューになるなら徹底的に自己チューを貫き通し、それによって成功すればよいのである。しかし“自分を守るため”の自己チューにはなってはならない。そのような自己チューは百害あって一利なしだ。“自分を守らない”自己チューによって、自分の置かれている立場を変え、周りを幸せにして行こう!

世界が広がる?

現実の世界、つまり地球の広さは何千年経っても変わらない。しかし自分の頭の中の世界は思考の深さに応じていくらでも広がるし、また思考を怠ればどんどん狭くなっていく。よく自分の世界を広めるために世界を旅行するという人がいる。確かにそれは間違っていないだろう。しかし旅行で広がる世界なんてたかが知れている。それよりも思考によって広がる世界の方が圧倒的に広いのだ。何なら思考によって宇宙全体を飲み込むこともできる。しかし思考しなければ目の前の事さえ見えない。

世界を広める一番効果的な方法は、数学や物理を極める事だ。何なら生物学でもいい。生物学を究めることによって人体の細部に入り込むこともできる。化学は身の回りの現象を理解し、さらに面白い物を誕生させることが出来るかもしれない。地学を究めることによってこの地球を根本的に理解できるかもしれない。科学を理解するとは、自分の世界を圧倒的に広める事なのである。

科学を理解する時に大事な事は、マクロとミクロの双方から理解することだ。経済学でマクロ経済とミクロ経済があるように、科学の世界にもマクロとミクロがある。数学はそれがさらに顕著で、無限大と無限小までも厳密に扱ってしまう。マクロとミクロの両方から複眼的に世界を見ることによって、世界の広さは何十倍にも何百倍にもなる。単眼的思考は最弱であり、複眼的思考は最強である。

科学に哲学を持ち込めば最高である。世間では科学と哲学は相いれないものだという認識が強い。確かに科学と哲学は違う。科学の理論の中に哲学論理を持ち込むのは間違っている。しかし、科学に対する思考の中に哲学的要素を持ち込むことはいくらでもできる。というより、哲学無き科学は常に貧弱である。もし科学を究めようと思えば、広く学問を究めなければならない。超複眼的思考によって、誰もがまだ到達していない科学の頂に立つことを目指すことは、非常にエキサイティングである。

真理を見抜く、本質を見抜く。

僕にとって物事の表面的な事はどうでもいい。いや、時には表面的な美しさにも魅かれることがあるが、それ以上にそれらの奥に潜んでいる本質を見抜くことが重要である。そして本質を見抜くためには、真理を理解しなければならない。

しかし、意外と真理を見抜いている人は少ない。固定観念や常識にとらわれ、真の思考を放棄してしまうのだ。本質の理解は深い思考抜きにはあり得ない。そして一点だけを見ても何も見えないことが多い。複眼的にその周りから受ける相互作用を考慮しなければならない。

ではなぜ真理を、本質を、見抜かなければならないのか?もしかしたら問題を解決するためと答えるかもしれない。しかしそれ以上に重要なのは問題を見つけることだ。もし自分自身で問題を見つけることが出来れば、その問題の解決の70%は出来ていると見て良い。“自分”で問題を見つけることが大事なのである。

21世紀初め、数学者のペレルマン博士によってポアンカレ予想という未解決問題が解かれた。もちろん解いたのはペレルマン博士であるが、その100年前にこの予想を提示したポアンカレはこの問題の本質の70%を掴んでいたと言って良い。だからこそ、ペレルマン博士が解いた後もこの問題はペレルマンの定理とはあまり言われず、“ポアンカレ”予想と言われているのである。

世の中には陳腐な事象が溢れ返っている。その中から少数の本質的なものを選び出さなければならない。しかし、歴史や権威に基づいた“本物”と言われるものに騙されてはいけない。歴史や権威に基づくものを思考停止的に本物だと崇める風潮が見られることに僕は危惧している。本質とは自分自身の頭で徹底的に思考して見出されるものなのである。

歴史学。

学校では歴史を「日本史」と「世界史」に分けて学ぶことになっている。もちろん便利上、日本史と世界史に分けることは大きなメリットがあるだろう。しかし、学校を卒業し大人になった後になっても日本史と世界史の区別にこだわることは賢明ではない。日本という国も地理的には世界の一部であり、日本史も世界史の一部である。なので日本史と世界史を区別するのではなく、日本と世界の歴史の相互作用を考えることが非常に重要になる。

「歴史は何のために学ぶのか?」と問われた時、「歴史から現在に生きる人間の進むべき道を考える。」と答えることが既定路線になっている。あるいは個人としても「自分がどう生きるかということに対するヒントを得る」という答えも定番だ。しかし、歴史そのものが面白くなければ誰も学ばないであろう。それは自然科学と同じである。物理を研究している物理学者は、物理が面白くて仕方がないのだ。数学も然りである。そして、それらが人類の知のレベルを表しているということも無視してはいけない。さらに当然のことながら、それらは人間の役に立つ。学問の効用を一元的に述べることはできない。

そして学んだあとに来るのが「考える」ということである。学問をただ受動的に学ぶだけではなく、自分自身で「論」を考えてみよう。歴史を学べば、そこから新しい論が出て来る。自分自身の説を作るのもいい。それが学界の主流になる訳ではないかもしれないが、自分で出した論、自分で導いてできた説は、人から学んだ百の勉強よりもはるかに価値がある。そのように身に付けたスキルは、あらゆる所、あらゆる分野で役に立つであろう。

学校で習うスタンダードな歴史を修得することはもちろん良いが、そこから自分自身で解釈して、自分なりの歴史観というものを創造することは非常に重要である。よく歴史は暗記科目だと言われるが、そのように言う人は歴史の心の一片も修得できていないのである。

序盤は構想力、中盤は実行力、終盤は勢いで押し込む!

最初に物事に取り組む時には、まず構想をしっかりと立てることが大事だ。特に大きなことに取り組む時には、時間的にも作業的にも長丁場になる。そのような事に対しては途中で何段階ものステージを経ねばならず、それぞれの段階で何を行うのか?そしてそれらをどう組み合わせるのか?という全体の骨格をしっかりと構成しないと、出来上がったものがちぐはぐになってしまう。序盤は構想力の勝負になる。

しっかりとした骨格を構成した後は、その骨格に従いつつ具体的な実行に移ることになる。頭の中だけで終わらせず、まず動く。それは体を使うということかもしれないし、ペンを持つ手を動かすということかもしれない。とにかく行動しない事には始まらない。「考えたら、すぐ実行!」、これは当たり前の事だが、意外とこれが出来ない人が多い。あれこれと妄想するだけで全く動かない人。他人にはいろいろと口出しするが、自分は全くかかわろうとしない人。これらはある意味、自分は安全地帯にいようと考える事から出て来る行動だと言える。しかしこれらの人は、重要な事に気づいていない。それは「安全地帯にいる=現状維持を目指す=没落へと進む」ということだ。現在の安全地帯もいずれは危険地帯に変わる可能性は大いにある。むしろ危険に飛び込む事こそ、後に安全を手に入れられることにつながることもある。人生において新たな事に挑戦しない者は、人生をやり切ってもう何もすることはないという人だけでいい。挑戦しない若者、あるいは何も成し遂げていないのに挑戦しようとしない人は、廃人同然だ。

物事を実行しある程度形が出来上がったら、後は押し込んで仕上げるのみだ。仕上げるのにも実行は不可欠だが、そこまでたどり着いたということはかなり勢いがついている。その勢いに任せて最後の一押しをしよう。その一押しをしないと完成のタイミングを失うことになる。どこで完成させようかと考えるのではなく、今完成させるのである。しっかりと構想をし、積極的に実行していけば、かなりのものが出来ているはずだ。そこまで行けば自信を持っていい。そしてそれを完成させれば、さらに自信が持てる。そしてその自信を次のステージへのスッテップアップの足場とすればいい。

「構想→実行→完成」の一連の流れを頭に入れておけば、途中で迷った時にもすぐにそこから抜け出せる。しかしそれが出来ていなければ、「思い付き→その場だけの取り組み→形にならない」ということの繰り返しになってしまう。起承転結ではないが、物事にはそれぞれのステージでそれぞれの仕事がある。そして人生とはその流れの繰り返しである。しかしその繰り返しは決して退屈なものではなく、非常にエキサイティングなものである。もし人生を面白く感じられないのならば、この流れを掴んでいない可能性が高い。人生のルーティンをしっかりと確立し、自分の形を作ることが非常に大切である。

複数の分野でプロになるべきだ!

大谷翔平はなぜ「投手としても超一流」で、「打者としても超一流」なのか?それは二刀流だからであると僕は考えている。何当たり前の事を言っているんだと言われそうだが、こういうことである。「投手に専念すればもっと良くなる」とか、「打者に専念すればもっと良くなる」とあらゆる人が口をそろえて言っている。しかし僕は、打者と投手の双方をすることによって、その相乗効果によってさらにレベルが上がっているのではないかと考えている。だから一本に絞ればさらに良くなるとは限らないし、一ファンとしても“二刀流”の大谷翔平を見たいと強く感じる。

学問においてプロとは何か?多くの人は一つの分野を極めている人だと言うかもしれない。特に日本社会では「プロ=専門家」という見方をされることが多い。しかし僕は一つの分野の殻の中に留まるべきではないと思う。それならば、「専門以外で趣味として他の学問をすればいい」と思うかもしれないが、僕はそれも甘いと思っている。専門以外の事でも、プロあるいはプロに限りなく近いセミプロになるべきだと思っている。数理物理学者ならば数学と物理だけを極めればよいという訳ではなく、他の学問、例えば哲学、生物学、歴史学、経済学、文学、語学など、あらゆる分野に関しても極めるべきだと思う。「趣味」ではダメなのである。複数の分野を極めることによって視野が広がり、本業においてもより本質を見抜くことが出来るようになる。

目指すは、「何学」のプロではなく、「学問」のプロであるべきだ。確かに生物学を極めると言っても、実験が出来る訳ではない。なので専門外の人間にとっては制限がある。しかし論文を読んで深く思考するくらいのことはしなければならない。しかしこのようなことを実行に移すためには、底なしの興味と好奇心が必要だ。どこまでそのような心を持てるか?という挑戦でもある。

僕自身が以上に書いたようなことを実行できているかと言えば、現在は「否」である。現時点では専門の事に関しても自分の納得できるところまでは行っていない。しかしこれからこのような事をどんどん実行して行こうと考えている。そのためには時間の使い方が一番の問題となる。しかし僕は時間の使い方が極端に下手だ。なので時間の使い方はこれからの僕の大きな課題だ。しかしこれからの進むべき道の広さと豊かさには心が躍る気がする。

完全バランスな社会などあり得ないのか?

社会は刻々と変化している。しかしその変化が進化か?と問われれば必ずしもそうとは思わない。確かに科学技術は確実に進化している。しかし人間自体は数年数十年で進化するわけではなく、モラルが良くなっている訳でもない。もちろん、より良い社会を目指して変化して行くことは必要だ。しかしそれが進化ではなく単なる変化、あるいは時には改悪だと思えることは非常に多い。

ではなぜ進化させようと思っていることが結果的に改悪になっているのか?それは視野の狭さに原因がある。ある事を改良しようとすると、そのことしか見えていないのだ。本来は物事というものはあらゆることが有機的につながって相互作用を起こしている。なので一点だけを見て変えようと思えば他の所で改悪的な影響が出るのは避けられない。生きやすい社会にしようと思って変えたことが、結果的に息苦しい社会を作ることになる。

現在、社会は非常にストレスを抱えていると僕は強く感じる。ネットやスマホにより生活は便利になり、交通は発達し、バリアフリーはいたるところで実践されている。しかし社会のあらゆるところで聞こえるのは、ストレスフルな現状に対する不満だ。ネットやスマホにより確かに便利になっている。しかしその一方、ネットやスマホに対してストレスを感じてはいないだろうか?もちろんそのような事は人それぞれ様々だが、便利さが新たなストレスの種になることはよくある。社会システムや法律を変えたことによって息苦しくなることがよくある。そのようなストレスを感じないためにもある程度の鈍感力は必要だとは思うが、何に関しても鈍感になり切ることなど簡単にできない。

生きやすい社会に変えようと思えば、広い視野であらゆるつながりを考慮しなければならない。一点だけを見て変えることほど危険な事はない。社会はバランスが重要なのである。しかし人間自体完璧でも何でもないので、完全バランスな社会などあり得ない。なのでどうしても生きづらい所やストレスを感じるところは随所に出て来る。そのような社会に中でいかに自分の人間性を発揮するか?そしていかにして広域的に良い社会を作っていくか?簡単な事ではないが、そのような事を思考しながら時代を前に進めて行かなければならない。