月別アーカイブ: 1月 2018

人間は考える葦である。

「人間は考える葦である」とはパスカルの有名な言葉であるが、広大な宇宙の中の小さな人間の存在を考えるとき、全くその通りで上手く言い表しているなと感じる。

現代の物理学では、マクロに宇宙を見通し、ミクロに原子よりはるかに小さいスケールを見通している。「見る」と言えば望遠鏡で宇宙のかなたを観測することを想像するかもしれない。あるいは顕微鏡で小さな世界を覗くことを想像するかもしれない。

しかし「見る」とは何も目で観測することだけを意味するのではない。理論的に理解することも、それらの世界を見ていることになる。その際に望遠鏡や顕微鏡に相当するのが数式である。数式は世界を理解する道具としては万能である。人間は宇宙の大きさに比べれば米粒より何十桁も小さな存在であるが、机上の計算によって宇宙を包み込んである。

人間は宇宙スケールの物理を理解し、ミクロの世界の物理も理解しているが、それらの二つのスケールの物理の融合(量子重力理論)はまだ成し遂げられてはいない。

人間の理解には限界はあるのか?それとも宇宙の全てを理解してしまうのか?人間が手にした道具(数式)の威力は非常に強力であり、少なくとも理論的には理解できる可能性を大きく秘めていると感じる。

セルフコントロール。

自分をコントロールするのは半分は自分であるが、半分は周りの環境である。自分の人生を自分の目標とするところへ導くためには、できる限り自分で自分をコントロールしなければならない。

自分の人生を特徴づけるもの、言い方を変えると“個性”と言えるかもしれないが、それらを彩るためには自己思想を構築しなければならない。そのためには外的要因を可能な限りなくすことが重要である。

自分で自分を完全に操るということは、意外に難しいものである。しかしセルフコントロールを完全に実行するということは、自分の人生をものにするということを意味する。

周りに影響され長い物に巻かれるか?それとも自分を完全にコントロールし周りを巻くか?そのどちらを選ぶかはそれぞれのスタンスにもよるが、生産的な人生を構築するためにはどちらを取るべきか?それは言うまでもない。

数値で示して、質を極める。

物事を極めるのには順序がある。まず量、すなわち数値で力量を示して、質を極めていく。とある高級車の歴史を見てそのようなことを感じた。

数値で力量の高さを示すとは、車で言えば最高速度、馬力、あるいは静粛性であろう。それらの事は、技術を高めていくことによって達成は可能である。

しかし技術を高めて数値で示すだけでは熟成はされない。数値を高めた後、次の段階は“質を高める”ことである。車で言うと、質感を高めることにあたる。しかし、この質感というものは物差しで測れるものでなく、客観的評価が難しい。感じる人によって千差万別であるが、質感のレベルというものが存在することはほとんどの人が理解できる。

質の高さは一朝一夕で出来上がるのもではない。時間もかかるし労力もかかる。そしてどこを目指しているかによっても大きく変わる。車を例にとって簡単に述べたが、このような過程は人間にも当てはまる。

自分が何を目指し、どう取り組んでいくか。最高を目指して極めるのなら、数値を高めるだけではなく、質を追求するところまで求められる。

誰のための学校か?誰のための教育か?

読売オンラインによると、今月23日に、北九州市の市立小学校で男性教諭が小6男児の顔を蹴り、意識を失わせたうえ鼻を骨折させ、その結果男児は現在も入院しているという。教師の生徒に対する暴力は定期的に耳にするが、今回の事例はその中でも特に悪質な部類に入るだろう。

教師の暴力に対して毎回思うことだが、学校はいったい誰のものなのか?全ての暴力教師はほぼ間違いなく学校は自分のものだと思っているに違いない。あるいは結果を考えるとそう捉えざるを得ない。

確かに学校教師という仕事は非常に苛酷である。モンスターペアレントの問題あり、度を越した超過勤務ありと過酷を極めており、学校教師には過度なストレスがかかっていることは想像に難くない。しかしそのはけ口を生徒に向けるなどということは絶対にしてはならないことであり、今回の事件を含め弁解の余地はない。

そして今回の事件で、警察の対応にも疑問が残る。警察は教諭に対して事情を聴いているとあるが、この事件は明らかに傷害事件であり、もしこれが学校外の事件ならかなり重い対応になるはずだ。

教師による暴力は交通事故と違って、社会の取り組みと意識の持ちようによってはゼロに抑えることができると僕は思っている。この様な事件がいまだに起こるということは、まだ学校環境とそれを取り巻く社会環境が未熟であると言わざるを得ない。

政治は、理念だけでも権力だけでも前に進まない。

26日、元衆議院議員で元自民党幹事長の野中広務氏が亡くなった。政治世界を支える人物が一人亡くなったことは寂しい思いもする。

改めて野中氏の経歴を見ると、京都の地方政治から一歩ずつのし上がっていき、真の理念と権力を持ち合わせた実力者という印象を受ける。

ところで、政治は立派な理念だけでは何も動かないし、また権力だけで押し通そうとしても無理がある。これまでの実力者と言われた政治家は、ほぼ例外なく理念と権力の両方を持ち合わせている。現在の首相である安倍総理も、良くも悪くもその双方を強く持ち合わせている。

単に理念と権力と言ったが、この二つを持ち合わせている政治家というのは多くない。これまで強権者と言われた有力政治家の中にも、理念が見えなく消えて行った政治家もいる。僕の浅い見識からではあるが、野中氏は理念と権力の双方を持ち合わせた政治家だったのではないかと感じる。

改めて野中広務氏の冥福を祈りたいと思う。

極めること。

物事を見通すうえで、何かを極めることは非常に強力な武器になる。10くらいの事を習得するより、一つの事を極めるという判断の方が賢明だ。

何かを極めるということは、軸足を作るということだ。そして一つの事を極めることによって、見える世界が大きく変わる。

一つの事を極めれば10の事を、二つの事を極めれば30くらいの事に応用が利く。一つの事を極め一つの軸足を作るだけでも非常に大変だが、二つの軸足を作れば進撃の安定感は桁違いに上がる。

僕自身も、数理物理の世界を極めるのは一番の目標だが、釣りを極めるという第二の目標もある。

一つの事を極め、周りの全てを達観することは、人生を意味づけするためにも非常に重要なことである。

絶対に求めてはならないもの、それは「100%の安全」だ!

100%の安全が保障されている状態というのは非常に理想的に思えるかもしれないが、実は100%の安全が保障されている状態というのは非常に危険な状態だ。

何が危険か?それは行動の自由度が全くなくなってしまうということだ。従って奴隷的状態に陥る。生きることはできるかもしれないが、自発的行動が全くとれなくなってしまう。

そして“リスク対効果”という観点からも、少しのリスクを取ることは多大なメリットをもたらす。社会においても、100%の安全を保障するプランは金額的にとんでもなく跳ね上がる。

ではそのような状態に陥らないためにはどうすればいいか?それは1%だけでもリスクを取ることだ。この1%のリスクが行動の自由度を圧倒的に広げてくれる。この少しのリスクは、“リスク対効果”が非常に高い。確かに大きなリスクを取る必要性はないが、少しのリスクを導入することは、ゆとりと自由度をもたらすことになる。

リスクを取る危険性を取るのか?リスクを取らない危険性を取るのか?それは個々の判断にゆだねられるが、100%の安全を求め奴隷的状態になることは絶対に避けなければならない。

地震・火山研究はどうあるべきか?

23日、草津白根山で火山噴火が起きた。今回の噴火は不意を衝くものであり、“気象庁も全くノーマークの火口”から噴火したものだ。その結果として噴火速報を出すことができなかった。

今回の噴火とは関係ないが、僕は以前から地震・火山研究に対して一つの疑問を持っている。それは、「現在の地震・火山噴火の“予知”に重点を置いた研究体制は本当に正しいのだろうか?」というものだ。

確かに地震・火山噴火の予知に関する研究体制は非常に重要である。しかしそれが故に、地震・火山に関する基礎研究・原理原則の研究が弱くなっているのではないだろうか?もし本当に正確な地震・火山噴火の予知を目指すのならば、まずは原理・原則などの基盤を固めなければいけない。急がば回れということである。

基盤研究なしの予知研究は、目先の処置を施しているに過ぎない。予知研究の成果は万人にもわかりやすいので、ついそちらばかりに手を出しがちになるが、今すべきは基礎研究・原理原則の探究である。

今回の噴火で自治体関係者が「本白根山は噴火記録がないので驚いた」と言っているが、これと同じ見解を気象庁及び研究者が持っているとしたら、非常に危険である。もちろん噴火記録や地震記録は重要な史料であるが、それらに基づく研究は単なる史学でしかない。

「前回の地震から数百年経っているので、もう地震が起きる頃だ」という発言を頻繁に聞くが、このような発言は科学的研究者の発言だとは到底思えない。それこそド素人レベルの見解である。

史学的な研究にのめりこんでいるようでは、地震・火山研究の発展は全く望めない。とは言え、地震・火山の科学的研究は地球規模の研究にもなり、金銭的負担は膨大になるであろうが、現在の目先の予知研究に対する膨大な投資をそちらに回せば、少しは展望が明るくなるのではないだろうか?

山中伸弥所長は絶対に辞めてはいけない!

22日、京大iPS細胞研究所の助教による論文ねつ造不正が発覚した。山中伸弥所長らが謝罪会見を開いたが、そこで山中所長自身も監督責任を問い、辞任する覚悟があるという趣旨のことを発言された。

助教による捏造は意図的なものであり、助教の処分はもちろん免れないが、山中所長自身の辞任は絶対に避けなければならない。

山中伸弥教授はiPS細胞研究所のみならず、日本のiPS細胞研究全体の求心力でもあり、山中教授のリードなきiPS細胞研究は考えられない。もちろんiPS細胞研究自体は山中教授なしでもやっていけるだろう。しかし山中教授は現在はiPS研究・医療のマネジメントに注力されており、現在の日本のiPS細胞研究・医療の方向性は山中教授が導いていると言っても過言ではない。

山中教授は研究者として立派であることはもちろん、人間としての魅力も多大であり、そのような山中教授の人間性に研究者のみならず日本の世論が支持していると言っていい。従って、山中教授が辞任すればそれは日本全体の損失であると言える。

責任感の強い山中教授が辞任を口にするのもわからなくもないが、ここは何が何でも留まってほしい。それが一国民の願いである。

人からは学ばない。

通常、社会では、人から学ぶということを要求される。人の成功、失敗から何かを学び、それを自分の糧とするのだろう。人から学ぶことの重要性は、100人いれば99人、いや100人ともが肯定することかもしれない。

しかし、自分自身で、自分の中からゼロから一を生み出さないといけないこともある。それは独創の境地と言えるのかもしれない。もちろん、他人から学んで一を生み出すという手もあるだろう。むしろその手の方が常套手段かもしれない。

しかし、他人から学ばないという手もある。何も学ばないのではない。人から学ばないだけだ。自分自身の内部の考察から実態を生み出す。そんな人間のあり様を教える人間を見たことないが、そんなあり様も僕はありだと思う。もちろん効率は悪い。しかしそんな人間が一人くらいいてもいいのではないだろうか。

自分の生き方と考え方を信じ失敗を繰り返すこと、それを貫いた先に何があるか?自分には見えているが、それを実現することは急務である。