月別アーカイブ: 4月 2016

他人のアドバイスを聞くだけではなく、自分の頭で考えて生きることが重要だ!

とにかく日本では、他人の意見を聞くこと、アドバイスを聞くことが非常に重要視される。自分で考える前に、いきなり他人に意見を求める人も多いのではないだろうか。もちろん他人の意見がもっともなことも多いが、他人の意見を聞くばかりに、自分で考えることを放棄してしまう。本末転倒だ。

自分の考えに基づいて行動を起こし失敗したら、どう思うだろうか。周りの人は、やはり人の意見を聞くべきだったというかもしれない。しかし失敗してもそれでいいのである。失敗することは悪いことではない。失敗は次への糧である。例え他人の意見を聞いたとしても、それで成功する保証は全くない。他人の意見に従って失敗したら、果たして納得できるであろうか。

成功することは非常に重要である。もちろん失敗はしない方がいい。しかし失敗は悪ではない。成功や失敗ということ以上に、自分の頭で考えて導き出し行動したかということの方がはるかに重要である。失敗も自分で考えて行動した結果であるからこそ、糧となるのである。

自分で考えたことに対しては、自分で責任を負わなければいけない。それくらいの覚悟は必要である。しかし自分の頭で考えない、そして覚悟もない、そんな人間が非常に多い。もちろんそんな考えや覚悟はなくても普通に生きていけるかもしれない。しかしそんな人生にいったいどれだけの価値があるだろうか?

人生は有限である。有限であるから人生は価値があるのだ。永遠の命などには価値はない。この有限の人生をどれだけ価値あるものにできるか、その一つに、自分で主体的に考え生きていくということが必要だと言えるのではないだろうか。

「やらぬ善より、やる偽善」、熊本地震で行動を起こし、寄付するタレント紗栄子さん

初めに断わっておくが、僕は紗栄子さんの行動を偽善とは思わない。本当の「善」からの行動だと思っている。

タレント紗栄子さんが、熊本地震被災者の支援として、500万円の寄付をしたという。貢献のかけらもしていない僕にとっては尊敬の念しか出てこない。

よく「やらぬ善より、やる偽善」という。この言葉は、あれこれ考えるより、とにかく行動を起こすことが大事なんだと言っているものだと僕は思っている。とにかく行動を起こせば、あるいはわずかでも寄付をすれば、間違いなく被災者の助けになるだろう。しかし一人であれこれ考えているだけでは、何の役にも立たない。今回の紗栄子さんの行動は百人力である。

しかし残念なことに、今回の紗栄子さんの行動を批判する人が多いらしい。紗栄子さんは今回の寄付をブログで公表したという。そのことに対して偽善だと批判されているという。僕からすれば、ブログに載せることは偽善でもなんでもない。紗栄子さんは正真正銘、多額の寄付を行い多くの被災者を助けた。それだけが事実なのである。もちろん1億円を寄付した人物が、500万円は少ないというのなら、少しは分からなくもない。もちろんそれだけの寄付をする人物は、そんなことを言うような心の狭い人間であるはずはないが。

実際は、やる偽善でさえもない「やらぬ偽善」という人間が多いのかもしれない。僕自身はどうなのかと言われると、僕自身弁解できない。僕はやる偽善さえできないダメな人間かもしれないが、せめて「やらぬ善」レベルは保ちたい。紗栄子さんを応援するのもそういう気持ちからだ。今回の紗栄子さんの行動を批判する人は、間違いなく「やらぬ偽善」だ。やらぬ善であれば、被災者の役には立てないが、人間失格の烙印だけは免れるかもしれない。

とは言え、いつかは「やる偽善」レベルの人間に昇格したいものである。たとえ少額でも、する機会と場所があれば、僕も微力ながら何かの力になろう。僕もまだまだダメな人間であることを思い知らされた。

 

高須院長の被災地支援と行動力

熊本での大地震被災者に対する支援が動き始めている。支援は公的機関によるもの、私的なもの、様々だ。実際に行動を起こし支援している人たちには、頭が上がらない。

美容外科の高須クリニック、高須克弥院長が、支援の表明をした。私的財産を投じ、ヘリで物資を届けるという。我々一般市民には到底まねのできないことだ。そして高須院長の行動力にはいつも驚かされる。

高須院長は災害支援以外にも、様々な支援活動を行っている。マイナーで資金に困っているスポーツへの支援、そして賛同する活動へのスポンサーなど、高須院長の社会的影響力は大きい。

本業の美容外科に関しては、新しい治療を自分の体を実験台にして確かめるなど、本業に関しても抜かりはないどころか、常に他者の数歩先を行っている。

高須院長には「知行合一」という言葉が似合っているかもしれない。考えるだけではなく、常に行動を起こし実行に移している。

考えるだけで、口にするだけで、全く実行に移さない人も多い。それが日本人特有のものか、人間の特性なのか、僕にはわからないが、言うより先に実行に移す高須院長の行動力に、我々は習わなければいけない。考えているだけでは何も動かない。とにかく少しでもいい。少しでも実行に移すことが世の中を変える原動力の一部になる。

高須院長の支援がいかされることを祈るばかりである。

熊本で大地震。気象庁および地震学者の、お粗末な後付見解

14日から熊本地方で大きな地震が相次いでいる。16日未明には、14日の地震より規模が大きい、マグニチュード7.3の地震が起きた。被害者の安全を祈るばかりである。

いつものことながら、気象庁及び地震学者の見解があまりにもひどい。はっきり言って素人レベルだ。もちろん専門家はある程度の根拠をもって言っているのであろうが、それから導き出される発言がこのレベルかと思うと情けないばかりである。

さらに14日の地震が起きた後、「震度6弱の余震が起きる可能性があるので注意してください」と気象庁及び地震学者は発言していた。この様な余震の予想などははっきり言って素人でも判断できるレベルだ。

そして現実は、16日にさらに大きな地震が起きることになる。すると気象庁及び地震学者はコロリと発言を変え、16日の地震が本震で、14日の地震は前震だったと論を覆した。全く持ってお粗末な後付見解である。

地震学という学問はもちろん基礎科学的な性質を持ち、実学一辺倒ではない。ですから地震学の全てを社会に還元しなければいけないとは思わない。しかし他の学問よりも社会への影響の大きな学問でであることは言うまでもない。地震学の主目的は防災・予知である。残念ながら地震予知に関してはまだ地震学はそれが可能なレベルには達していない。しかし防災に関しては現段階でも十分できる事はあるはずだ。

これも素人の僕の後付意見になるが、なぜ地震学者は14日の地震が前震で、後に本震が起きる「可能性」を指摘しなかったのか?このことに関してプロである地震学者は説明責任を負うべきではないだろうか。地震が起きるたびに毎回発言される地震学者の後付発言にはもううんざりである。一般市民は、現在の地震学はどれほど進歩していて、また何ができないか判断できない。今一度地震学者たちは、現在の地震学の状況を国民に正確に説明する責任があるのではないだろうか。

STAP疑義、真相は?日本の報道姿勢は正しいか?若山教授に対する疑惑は?

最近、STAP問題がある方向へ傾き始めた。発端は、小保方晴子氏が出版した手記「あの日」と、小保方氏が立ち上げたホームページ「STAP HOPE PAGE」だ。そこで、現在まで責任を一身に背負ってきた小保方氏だが、最近は小保方氏の共同研究者で元上司の若山照彦・山梨大学教授への疑義が強まっている。

小保方氏の手記やホームページに対して「いい訳だ」と批判する声が強いが、僕自身は言い訳はしっかりするべきだと思う。真相はどうなのか、どこが正しくてどこが間違っているのか、それを知るためには本人の言い訳なしでは判断できない。

我々専門外の市民は、どうしてもマスコミからの一方的な報道に頼らざる負えない。そこで、張本人からの直接的な情報は貴重である。

今回の小保方氏からの情報発信によって、新たな疑惑が浮上してきた。若山氏への疑義だ。僕自身、直接この問題に関わっている訳ではないので、これ以上憶測で書くのは止めるが、ただどうやらSTAP問題の責任は小保方氏一人で背負うような単純な問題ではなさそうだ。しかもこの問題に関して、笹井氏の自殺という悲劇が起こっている。

今必要なのは、「日本の常識である、空気を読んだ検証」ではない。「厳密なる中立な検証」だ。STAP問題はすでに終わった問題となっているようだが、もう一度あらゆる可能性を考慮して、先入観のない厳密に中立な第三者による再検証が必要かもしれない。その検証を実行するためにも、小保方氏の立ち上げた「STAP HOPE PAGE」は大きな役割を果たすかもしれない。

小保方氏ホームページ立ち上げ。そもそも科学とはどうあるべきか

4月の初め、STAP細胞の小保方晴子氏が「STAP HOPE PAGE」というタイトルのホームページを立ち上げた。「”HOPE” PAGE」と名付けたように、小保方氏にとってはわずかな希望にでもつなげるサイトなのであろう。

この「STAP HOPE PAGE 」は、世界中の研究者に対して小保方氏のSTAP細胞研究の正当性を示すのが目的で、もちろん全文英文で書かれている。内容の重点は、STAP細胞製作の手順、すなわちレシピを公開するもので、専門的な内容まで(おそらく厳密に)書かれている。

これを見て専門外の僕がどうこうと批評できるものではないが、もしかしたらというささやかな期待も少しある。

ところでそもそも科学の世界で成果をあげるとはどういうことか?ほぼどの分野でも「こうだ!」と主張しても何の成果にもならない。数学なら厳密な証明が必要だし、生物学なら実験で証明されなければならない。

例外として、数学では「予想」というものが存在し、それを証明して初めて「定理」になるのだが、しばしば証明した学者よりも予想した学者の方が圧倒的に有名であったりする。

フェルマー予想(フェルマーの大定理とも呼ばれる)はフェルマーが予想してから360年後の1995年にワイルズによって証明され、「ワイルズの定理」となったが、今でも「フェルマーの大定理」という名称の方が主流だ。ペレルマンの証明した「ポアンカレ予想」もそうであろう。

この様に理論的証明、あるいは実験証明の伴わないものは、基本的に科学とは言わない。(フェルマー予想のような一部の例外を除いては。)小保方氏が今回ホームページ上で厳密な実験レシピを示したことは、科学者としての責任を最低限果たしたものといえるだろう。

巨大な組織力は、飛び抜けた個の力から生まれる

今日本で巨大な組織、あるいは巨大な産業と言えば、車産業・電気電子産業など様々あるが、その中の一つにロケット産業がある。ロケット産業は言うまでもなく巨大であり、非常にすそ野の広いプロジェクトである。そこに関わる組織はJAXA・三菱重工などをはじめ、重厚広大な企業から中小の町工場まで、すべてを把握するのは不可能であるとも言える。

しかしこの重厚広大な日本のロケットプロジェクトも、その原点をたどると糸川英夫博士のペンシルロケットにたどり着く。「ペンシル」と言う言葉通り、シャーペンほどの大きさの非常に小さいロケットだ。当時、この糸川博士のペンシルロケットを子供のおもちゃ同然とバカにする者も多かったという。しかしこのペンシルロケットの系譜上にあるのが、今日本の技術の最先端かつ巨大なH2Aロケットなのである。

この様に現在の日本の巨大ロケットプロジェクトは、糸川博士という一人の飛び抜けた個の力から生まれたのである。

どのような分野でも同じことが言えるのかもしれないが、科学技術の分野ではこのような歴史がいくつも生まれている。

20世紀の二大物理理論である、「量子力学」と「相対性理論」はその最たる例であろう。

量子力学は完全な個とは言えないかもしれないが、ボーア、ハイゼンベルク、シュレーディンガーといった個人の才能が大きな力になったことは言うまでもない。そして現在、科学技術と言われるほぼすべての技術に、この量子力学理論が応用されていると言っても過言ではない。

そして相対性理論に至っては、アインシュタインという大天才一人の力によって創造された。ここで相対性理論といった場合、一つ注意しなければいけない。相対性理論と呼ばれる理論は二つ存在する。1905年の「特殊相対性理論」と、1916年の「一般相対性理論」である。もちろん両方ともアインシュタインの個の力によって生まれた。特殊相対論の方は早くから応用され、特殊相対論なしでは科学理論は語れない。

しかし一般相対論は、あまりにも重厚広大すぎて、技術への応用はかなり遅れた。しかし現在ではGPSなどに使われるなど、しっかりと現在の科学技術に根付いている。

個の力は時には組織の力を大きく超えることがある。しかもブレークスルーは個の力から生まれることが多い。このブレークスルーを生み出すような個の力が生きていける社会を作り、維持することも、国家の役割ではないかと思う。

報道ステーション、終了。古舘さん、お疲れ様。

3月31日で、テレビ朝日のニュース番組「報道ステーション」が終了した。12年間の長きにわたる放送だった。改めて、12年間メインキャスターを務められた古舘伊知郎さんには「お疲れ様」と言いたい。

この報道ステーションは、久米宏さんがメインキャスターを務められた「ニュースステーション」の後番組として始まり、久米さん・古舘さん共に高視聴率を維持し、最も注目を浴びるニュース番組として存在感を発揮した。

では、報道ステーションと他のニュース番組では何が違ったのか。報ステでの古舘さん個人の影響力は非常に大きく、いい意味で独裁的であった。古舘さんは可能な範囲で、自分の意見を自分の言葉で最大限表現しようとした。それが視聴者の反発を食らうこともあったであろう。しかし古舘さんは自分のスタンスを崩さずにやり通したことが、支持された一番の理由ではないだろうか。

古舘さんは、今回報ステのキャスターを降りるにあたって、「この12年間は非常に窮屈であった」と述べられている。公共放送であるテレビニュース番組では制約も大きく、また一定の中立性も求められる。その中でいかにして古舘色を出していくか、苦労されたのだと思う。

テレビニュース番組の中では最もメインキャスターの個人色の強い番組であったことから、おそらく好き嫌いがはっきり出るニュース番組であったと思う。僕は個人的には古舘さんの報ステは好きだった。もちろん細かいことの好き嫌いを言い出せばきりがない。しかし古舘さんの発言には、古館さん個人の思いも含め、基本的に支持してきた。

古舘さんは今後、しゃべりたいことをしゃべりたいように表現すると言っている。報ステで制約を受けてきた反動で、火炎放射のごとく喋り捲るのではないか。

今後の古舘さんの活躍を、そして制約のない言語表現を期待したい。