月別アーカイブ: 11月 2020

専門分野の末端よりも、他分野の根幹を!

学問に取り組んでいると、当たり前の事だがどんどん専門的になってくる。専門を極めることは非常に重要な事だが、しかし細分化されつくした末端にこだわるのはまた違う話だ。専門を究めながらも、その本質を見抜き、根幹に取り組まなければ価値は生まれない。しかし実際は、細分化された末端の計算テクニックに終始している研究者も少なくない。

そして自分の専門分野の根幹に取り組みながらも、時には他分野に視野を広げるのも悪くない。しかしその際重要になってくるのは、他分野であってもその根幹に取り組むことだ。そもそも他分野の末端などに取り組む時間的余裕はないし、他分野であっても、それが本質的に重要な事であれば必ず自分の専門分野にも思考的優位は生まれてくるはずだ。だからこそ僕は専門の数学・物理以外にも、様々な科学、さらには社会的学問などにも取り組むことにしている。

大学で研究をしている学生などの中には、いち早く最先端にたどり着くことにこだわる人が少なくない。確かにそれはそれで重要であるが、それ以上に大事な事は、学びながら本質を掴むことである。なので本質を掴むために一年二年つぎ込むことは全く悪くない。むしろ最速で表面をさらうくらいなら、五年十年かけてじっくりと本質を料理する方が余程価値がある。

そしてもし本質を掴むことができれば、それから先は意外と早く進むものだ。本質を掴めば、あとは技術を身に付けるだけだ。しかしこの順番が大事なのである。「本質を掴む→技術を身に付ける」とすべきところが、この順序が逆になってしまうといつまでも本質を掴めないままになってしまう。本は何のために読むのか?もちろん情報を手に入れると言うことも重要だが、その情報を料理できなければ価値は生まれない。もうそろそろ情報を暗記するだけの読書は止めにしないか!と多くの人に問いかけたい。

西村大臣の「神のみぞ知る」発言について。

数日前、西村経済再生担当大臣が、コロナの行方について「神のみぞ知る」と言う発言をしたことについて、僕は非常に憤りを覚えている。しかもその言葉が批判されると、「尾身氏(新型コロナウイルス感染症対策分科会会長)の言葉を引用しただけだ」と言う、開いた口がふさがらなくなるような言い訳を発言した。ああ、なんて低レベルな人間のはびこる日本の政界か・・・。いや、トランプアメリカはもっと酷かったが。

そもそも尾身会長はどのような意味でこの言葉を使用したのか?それは「100%予測できるわけではないと言う意味で「神のみぞ」と発言したが、その神のみぞ知る領域に少しでも近づくべくデータを出して対策を練らなければならない」と言う趣旨で、比喩的な意味でそのような言葉を用いたと言う。そのような文言だけを真に受けた愚かな大臣が、その言葉をそのまま自分の口から垂れ流した。そして批判を浴びると人に責任を擦り付ける。そもそもこの問題については、大臣たちは政策を練って少しでもコントロールすべく動かなければならない立場にある。それを「神のみぞ知る」と投げ出しては、それはもう職務放棄でしかない。もしそのような発言をしたければ、議員を辞任した方が良い。

そしてこの言葉は政治家としてあまりにも軽すぎる。菅総理が無能なら、その手足となる大臣もさらに無能と言うことか。一度出すことはすべて出したうえで早く総選挙を行った方が良い。しかし今は安倍政権から変わった新鮮さがまだ残っているので、支持率はそこそこ高めである。しかし次の総選挙を先延ばしすればするほど菅政権は苦境に追い込まれるであろう。僕自身これまでは自民を支持していたが、菅自民は全く支持できない。何度も言うように、石破総理が渇望される。

確かに安倍政権末期はそれなりに酷い状況であった。しかし現在の菅政権は安倍政権とは比べ物にならないほど無策無能である。そして各大臣含めて責任転嫁、不都合な人間は徹底排除の姿勢である。このような状況はどこかで見たことないか?以前のトランプ政権である。トランプ政権の超小型版が菅政権だと言える。GoToキャンペーン停止も即時に判断できない。何のための権力か?権力を生かすも殺すも大臣たちの資質にかかっている。

iPad一台で。

昨日少し外出したのだが、その時にいつものように鞄に数冊の本を詰め込み、そしてiPadを携帯して出かけた。いつもは紙の本を電車の中で開くのだが、昨日はずっとiPadを開いて読んでいた。その時感じたのだが、iPadは本当に強力である。電車の中で千ページもある紙の専門書を開くことなど到底できないが、iPadに電子書籍を入れておけば読み放題だ。しかもiPadは100ページほどの本と同じくらいの厚さ。しかもその中に本を何十冊でも何百冊でも詰め込むことができる。僕はやはり紙派なので家では紙の本を開くが、しかし外出先などでは携帯性に圧倒的に優れるiPadで電子書籍を読むに限る。外ではiPadは最強だ。

結局、今日は電車の中でも外出先でも紙の本は一切開かなかった。そしてこれからは外出する際には紙の本を持ち歩かずにiPad一台だけを携帯すれば良いのではと言う思いが強くなった。そうすれば、いつも持ち歩いている重厚な鞄も持ち歩かずに済む。その鞄はもう8年くらい使用している僕のお気に入りの鞄だが、iPad一台なら小さなショルダーバックだけで十分だ。

晴れた日には、外で陽の光を浴びながら勉強や研究をするのもいい。しかし上にも書いたように、千ページもする紙の専門書を外で開くことはできない。そこでこれからは陽の光を浴びながらiPadで勉強・研究しようかと考えている。iPadには便利なノートアプリなども入れることができる。最近のノートアプリは非常に便利で、iPadの左半分に書籍を表示させて、右半分にノートを表示させ、スタイラスペンでノートを取ることもできる。ITに振り回されるのは良くないが、ITを積極的に使いこなせることができれば、可能性はさらに広がるのかもしれない。

最後にどのiPadが良いのかと言う話だが、僕のように書籍や論文を読むのがメインなら高性能なものは全く必要ない。なので僕は一番安い無印のiPadを使っている。しかし無印iPadで十分なのだが、ストレージは最低でも128GBは確保した方が良い。iPadで様々な事に挑戦するのなら高性能であることに越したことはないが、ストレージは自分に合った容量×2くらいのものを選んだ方が良い。ストレージをケチると後で痛い目に合ってしまう。僕には高性能なものは必要ないとは言え、やはり高性能の最新iPadには目がくらんでしまう。なので本当はiPad Proの大画面12.9インチが欲しくなる。しかし現在のところ今のiPadで事足りているので、今持っているiPadをフル活用し研究結果に結び付け、結果を出した後に高性能iPadを買おうと企んでいる。

進化する人間。

進化には二種類ある。集団の進化、そして個の進化である。人間で言えば、集団の進化と言えば人類の進化の事であり、歴史的にも科学的にも人間が進化していることは間違いない。ただ現代の人類の進化はあまりにも急激すぎるように思える。これは人間と言う生物の進化によるものか?それとも人類が手にした科学技術によるものか?もちろん両方あるとは思うが、しかし割合で言うと圧倒的に科学技術によるものだろう。しかも人間の方が科学技術の進化に追い付いていないように思える。科学技術は人間が生み出したものではあるが、しかし最近は人間がその科学技術をコントロールできていないように思える。近年ITの進化が目覚ましいが、しかしその関係性を見ると、人間が主ではなくITが主になっているように見える。人間の幸福の向上のためにITを発達させるべきだが、ITの進化そのものが目的になり、人間はそのITに合わせているように感じる。では人間が主になるためにはどうすべきか?それは一人ひとりが科学技術に対する知見を少しでも多く習得することに限る。でないと科学技術は永遠にブラックボックスのままになってしまう。

では人間の個としての進化はどうか?これに関しては日本だけにおいても一億二千万通りあるので全てを語りつくすことはできない。なので僕が一番よく知っている「自分」と言う人間について語ることにする。僕は一人の人間として、死ぬまで進化すべきだと考えている。身体的にも、そして頭脳においても。もちろん科学的(医学的)には、人間は老化していくことがわかっている。そして老化は常識のように語られる。しかしだからと言って、そのような老化の流れに身を任せようとは僕は思わない。自分自身で進化の流れを作ろうと思っているのである。もちろん何もしなければ人間は進化することはできない。そのために筋トレをしたり、そして頭脳を鍛えるのである。とは言え、一部分だけを見れば老化(退化?)する部分が出て来ることは仕方がない。しかしトータルで見て進化していればいいのである。頭脳であれば記憶力は衰えても、それ以上に思考力を進化させればよいのである。そんなことは本当に可能なのか?自分で可能だと思えることができれば可能であろうし、できないと初めから決めつけてしまえば100%不可能であろう。

今、常識にとらわれずに進化しようとしているスポーツ選手がいる。新庄剛志だ。僕が現在唯一生き方が共感できる人間、それが新庄剛志だ。分野は違うが、死ぬまで進化しようとする姿勢は共通すると感じている。だからこそ新庄選手には何が何でもプロ野球界復帰を成功させてほしい。その一方、僕と新庄選手で決定的に違うところもある。それは新庄選手は既に一度、いや何度も結果を残し成功を果たしている。しかし僕には過去の実績はない。しかし未来の事に過去の事はほぼ関係ない。むしろ過去の実績があればそれが足かせになることもある。だからこそ僕は自由に進化への挑戦に突き進むことができる。ゼロが基準、そこから一でも出来ればそれが進化になる。今はそれ以上落ちることはないのだ。もちろん僕は一や二の進化を望んでいるのではない。百や千の進化を試みている。そして今大きな手ごたえを感じているので、あとはそれを実行するだけだ。

さらにもう一つ付け加えるのならば、精神的な進化も成さねばならないと強く感じている。心臓に毛を生やすのだ。自分の道を突き進むのならば、何事にも動じない精神力が必用だ。現在は僕はまだまだそこまではたどり着けていない。そして心臓に毛を生やすことが可能かどうかも分からない。しかしこのことについても挑戦して行こうと思っている。何をすれば心臓に毛を生やせるか?僕にはまだ明確な答えは見えていない。しかしこれも可能だと信じて一本一本毛を生やしていくしかない。それができた時、肉体と頭脳と精神と言う人間の三本の矢を束にして大きく進化できると強く思っている。

保身は断固拒否!

「保身」、それは僕が一番嫌いな言葉だ。しかし世の中、特に権力者は何かと保身に走りがちだ。政治家、学校教師、そして我々市民まで、自分の立場が追い込まれるとつい保身的な言動、行動をとってしまう。それは僕だって例外ではない。保身が大嫌いだと言いながら、時には保身への誘惑に駆られてしまう。だからこそ保身に対して断固拒否と言う意志を明確に維持しないと、自分の信念を貫くことはできない。

先日も自殺した生徒を学校側が突然死だと隠蔽しようとしていた事案が発覚した。これは学校と県が共謀して隠蔽工作を進めていたと言う。学校では、生徒が不慮の事故や病気、そして学校外の不手際による生徒の死亡に対しては例外なく「命を大切にしよう。事故を風化させてはならない。」と訴えかけるが、学校側の不手際による事故などに関しては徹底的に隠蔽しようとする。その典型が神戸でも20年以上前にあった。教師が校門で生徒を挟んで死亡させると言う「神戸高塚高校校門圧死事件」だが、事故後には学校側が徹底的な隠蔽工作を主導していた。そして徹底的に風化させようと進めていた。今はさすがにそんなことはないだろうと思っていたが、東須磨小学校で教員同士のいじめが発覚した。今でも神戸市の教育組織の体質は昔とそんなに変わっていないようだ。

僕自身そんなに立派な人間ではないと思うし、偉そうなことなど言えない立場かもしれない。しかし保身には絶対に走らないと強く心に決めているし、そういう意味では神戸市の教員のような隠蔽・保身に走るような人間よりかははるかにマシだと思っている。しかしもし僕が保身に走ろうものなら、皆で僕を叱り倒して欲しいと思う。

お洒落。

僕はお洒落かどうか?と問われれば、お洒落な方だと思う。そしてお洒落に関して自分なりにこだわりもある。そこで僕が理想と考えているお洒落とはどういうものかと言うことを、少し書いてみたいと思う。

あるファッションディレクターが言っている事で、僕も同感な事だが、どのようなお洒落を目指すかという時、それは「最高の普通」と言うことである。よくお洒落にこだわる人が陥りがちなのが、奇抜になりすぎることだ。なぜそのように奇抜になってしまうかと言えば、それは「特殊なお洒落」を目指しているからだ。そしてなぜ「特殊」を目指しているかと言えば、おそらく個性を出したいのだろうと思う。これはまさしく、「最高の普通」とは対極にあるお洒落だ。このようなお洒落は、僕にとっては最高にカッコ悪いと感じてしまう。

もしかしたら、普通のお洒落では個性が出ないのでは?と思うかもしれない。しかしそれでいいのだ。僕は個性は服装などのファッションで出すべきものでないと思っている。個性とは人間性である。なので個性は人間内部から出さなければならない。巷にいるファッションで個性を出そうとしている人たちは、自分で個性がないと言っているみたいなものだ。ただ何も服装の事を考えずにダサいのもそれはそれで問題かもしれない。なぜなら自分はそれでいいと思っていても、それを評価するのはその人を見る他人である。なので最低限の身なり、清潔感には気を付けなければならない。

そして大事なのは、お金をかければお洒落になると言うものではないと言うことである。もちろん最低限のお金は必要かもしれないが、服装より重要になってくるのは体付きである。お金を注ぎ込むよりも圧倒的に効果があるのは筋トレだ。なので僕は筋トレを毎日ほぼ欠かさずに行っている。何もジムに行く必要はない。自宅でダンベルを持つなり腹筋・腕立て伏せをするなりして鍛えればよい。ランニングも効果がある。まめに体を管理して細マッチョを保って行こうと僕は決めている。

かけるお金は適度にして「毎日お洒落生活は」は非常に楽しいものである。そしてお洒落を決めるためにもいろいろ試行錯誤することになる。すなわち結構頭を使うものだ。なので僕の思考生活の中でお洒落はその一部として機能している。そしてこれからも筋トレを継続して、一石二鳥とばかりにお洒落と健康を手に入れたいと思っている。

孤独な人間でありたい。

僕は人と付き合うのが大好きだ。人と飲んだり話したり、様々な人と関わっていきたいと思っている。しかし僕は基本は一人でいることを好んでいる。人と群れるのは好きではないし、研究も一人で行っている。一人でできる理論系の研究と言うものが本当に性に合っていると強く感じている。なので普段は一人で行動し、その中で人との付き合いをすると言うのが僕のスタンスである。

世間では孤独死と言うものが問題になっている。しかし僕にはこれがなぜ問題なのか理解できない。一人で死のうが人に看取られようが死の苦しみは変わらないし、僕はむしろ一人で死ぬ方が気楽でいいとさえ思っている。死ぬ間際の事より、それまで生きている時代をいかに楽しむかと言うことの方が圧倒的に大事である。孤独死が問題になるのは、おそらく「孤独」と言うものに社会や多くの人がネガティブなイメージを持っていることが原因であると思われる。しかし僕はそもそも孤独と言うものがネガティブだとは全く思っておらず、むしろ一人で生きるたくましさがあると言うようなポジティブなイメージを持っている。なので孤独をネガティブに捉えるのは、人間としての弱さから来ているのだと僕は考えている。

孤独かどうかは、一人か否かだ。もちろん人間は一人では生きて行けない。なので人と交わって生きて行くことは必須である。しかしそれが度を過ぎると、協調性を強制するような世の中になってしまう。多くの人は自分が協調性のある人間だとアピールするが、僕にはそれが煩わしい。そして協調性はあるが、一人では何もできない人が現代の世の中には多すぎる。いわゆる指示待ち人間である。孤独を愛すると言うことは、主体的な人間であると言うことである。自分の頭で考え、自分の判断で行動できなければいけないと僕は思っている。

確かに僕は多くの人とは違う。良くも悪くも違う。でもそれでいいのだと僕は思っている。誰でも長所短所は併せ持っている。その内容が人とは違うだけだ。ただ僕が思うのは、そのような人との違いを許容できる社会になって欲しいと言うことである。でないと日本は均一な平凡な国になってしまうと僕は考えている。そしてその「平凡」とは「平均」ではない。そこにあるのは間違いなく平均以下である。

GoToキャンペーンは狂っていた!

コロナ禍はますます広がっている。感染者は過去最多を記録し、このまま無策を続けていれば深刻度はますます深くなっていくと考えられる。その中でもわずかな光は、最近数件のワクチン開発が上手くいっていると言う報道であろう。僕は二件のワクチン開発のニュースを把握しているが、どちらも有効性は90%以上だと言われている。有効性が90%だと言う意味は、ワクチンを打たなかった場合100人感染するとすれば、ワクチンを打てばそのうち90人以上は感染を免れるであろうと言うことだ。また製薬大手ファイザーは、ワクチンの緊急使用をアメリカ当局に申請していると言うニュースもある。そうなればワクチン配布開始までの日程が前倒しされるかもしれない。このニュースを含め、全てが上手く進んで行くことを願うしかない。

日本医師会の会長は、GoToキャンペーンがコロナ感染増のきっかけになったと言う見解を示した。これに関しては、医療研究者のみならず、多くの国民も同様の事を考えているだろう。僕自身もGoToキャンペーンが始まったころ、そのことに対する懸念をブログで書き表した(下記リンク記事、7月17日)。

GoToキャンペーンは安倍内閣時に始まったものであり、安倍前首相の責任は大きいが、そのまま放置し続けている菅内閣の責任ももちろん大きい。この責任を誰が取るのか?おそらく誰も取らないであろう。何しろ安倍前首相はこれまで不祥事が起こるたび、何度も「責任を痛感している」と言い続け、一度も責任を取ったことがない。成功は上司の成果、失敗は部下の責任と言うことを実行し続けてきた。そのもとで官房長官を続けてきた現首相の菅氏はそれ以上の無策である。打開先など期待できない。

そう、全ての根源は、「上司の成果、部下の責任」と言う姿勢から来ているものだ。部下に責任を押し続けながら、成果が出れば自分のものにする。それが現在の日本の政界の現状である。「郵政をぶっ壊す」と言って乗り込んだ小泉氏の時代が懐かしい。息子の進次郎氏はそれ以上の事を実現できるであろうか?僕はそれに非常に期待している。しかしそれまでは石破茂氏の良識に懸けるしかない。とは言え、石破氏は現在自民党の中で冷や水を飲ませ続けられている。民主主義は決して多数決一辺倒ではないと思っているが、国民に一番支持されている石破氏が国会議員内での不人気で執るべき位置にいられないのはどう考えてもおかしい。これが日本政界の現状である。

これまで民主主義は善と教えられてきた。そして僕も例外に漏れず、そう思い続けている。民主主義体制は死守すべきだ。しかしおかしいところは変えて行くべきでもある。それは民主主義を否定するのではなく、より強固で理想的な民主主義に変革していくためである。もしかしたら完全なる理想などは無理なのかもしれない。しかし理想を捨ててしまえば残るは没落である。

4年前、トランプ氏が大統領になってから明らかに民主主義がおかしくなってきた。それに影響されてか、安倍自民による民主主義もどこか狂い始めた。そして菅自民は何もできていない。菅氏がやったことと言えば、携帯料金引き下げの圧力くらいである。今しなければならない政策の一丁目一番地は間違いなく経済を含めたコロナ対策である。しかし目先の状況ばかりにとらわれて、中長期的展望が決定的に欠けている。現金のバラマキは良くないと言われるが、GoToキャンペーンなどするくらいなら、その資金を観光業界にばらまいた方が少しはマシだったのではないかと思える。今の経済状況に対して対処療法的なGoToキャンペーンをすることにより感染拡大を招き、中期的には経済状況をさらに悪化させようとしている。それが現在の日本の状況である。

頭隠さず、尻隠さず!

ローランドさんのYouTubeを見ていると、ローランドさんがこんな言葉を言っていた。確かにローランドさんほどの派手な人間ならどこに行っても注目を浴びるだろうし、逆に隠れようと思っても隠れようがない。しかし何もやましいことをやっていなければ、そもそも隠れる必要などないのだ。

とは言え、何か事を起こそうものなら、それが悪いことではないとは思っていても何でも叩かれる世の中だ。しかしそこで重要になるのが、自分の中での基準だ。例え社会的に悪いと言う風潮であっても(それはそもそも流行のようなものである)、自分が正しいと思えばそれを貫けばよい。とは言え、それはなかなか度胸のいることだ。例えば有名人だと、付き合いなどを隠すために目立たないように行動したりする。それが普通かもしれないが、僕はいっそうの事、全て堂々とさらそうと思っている。もちろん僕は現在別に有名人ではないので、僕の行動に注目する人もいないのだろうが、このブログサイトのタイトルで堂々と名前をさらしているのもそう言うことである。

自分を隠そうとしていると、それはそれで非常に疲れることである。しかし全てをさらすのも気力がいる。しかし僕は後者の生き方を取ろうと思っている。ローランドさんが言うように、「頭隠さず、尻隠さず」だ!例え一国の総理にブログなどで物申す時も、堂々と自分の名前を名乗って突きつけたい。大事なのは他人の目ではなく自分の意志だ。そのような意志を貫くためには、自分を隠していては成し遂げられない。自分はローランドさんにはなれないが、自分のアイデンティティとなる意志は示し続けたいと思っている。

大統領選挙、そもそも4年前から間違っていた。

アメリカ大統領選挙は、ほぼバイデン氏で決まりそうだ。もちろん法的に結果が覆される可能性はゼロではないが、期待も込めてバイデン大統領と呼ぼう。

今回の大統領選挙は、様々な意味で大きな波紋を広げている。そして過去にはなかった懸念が示されている。その懸念とは何か?一番大きな懸念は、トランプ氏が退任後、他国に機密事項を漏らすのではないかと言う懸念である。こんなことは過去の大統領ではありえなかったことだが、トランプ氏となればむしろそのような事が普通に思える。ではなぜそのような事が起こり得るのか?それはトランプ氏はアメリカファーストと口では言いながら全くアメリカの事を考えておらず「自分ファースト」であったからである。結局トランプ氏にとってはアメリカが滅びようがどうなろうがどうでもいいのである。自分の利益になることなら何でもやる。そしてトランプ氏は大統領退任後、様々な訴訟が起こされることがほぼ確実視されている。金銭的な訴訟からセクハラ訴訟まで多岐にわたっている。さらに海外に逃亡でもされるものなら機密情報はダダ漏れで、アメリカ(そしてもちろん日本も)存亡の危機に立たされる。なので僕はトランプ大統領退任後、アメリカ当局によって即拘束されるとみている。一度海外に逃げられると終わりである。なので大統領退任前であっても海外渡航は当局(バイデン陣営?)は許さないであろう。

今回の選挙結果は正しかったか?いや、そういう問題ではない。そもそも4年前の大統領選挙が間違っていたのである。全ての悪夢は4年前にトランプ氏が当選したことから始まる。もちろん民主主義国家にとって、選挙は最も基礎的で重要なものである。しかしその民主主義の根幹が今回の危機をもたらした。仮に今回トランプ氏が当選していても、4年後に同じことが起こる。もちろんその場合、状況はさらに深刻になっている可能性が高いが。一年後、過去の大統領選挙でもしヒラリー氏が当選していたら今頃はバラ色だったと皆感じるかもしれない。トランプ氏はアメリカの分断だけでなく世界の分断ももたらした。中国問題に関してはトランプ氏が強硬に出ていることを評価する声もあるが、もしヒラリー氏がなっていれば問題はここまで深刻になっていなかったかもしれな。もちろん、近年の中国の動きは民主主義陣営にとって脅威であり、抑え込まなければならない問題であることには変わりはない。

自国を守らなければならない前大統領が、自国を攻撃し危機をもたらす。そのような悪夢のようなことが現実的に起きようとしている。そしてそれはアメリカだけの問題ではなく、彼によってもたらされた分断によって世界の危機になるかもしれない。アメリカと強固な同盟関係にある日本にとっても、対岸の火事と見てばかりではいられないはずだ。最後に残された望みは、バイデン大統領が上手く危機を乗り切ってくれることにかかっている。