月別アーカイブ: 12月 2019

科学は宗教であってはならない!

現在、地球温暖化が世界で大きな問題になっている。そこでよく言われているのが、地球温暖化問題は科学か?宗教か?と言うことである。実は地球温暖化を厳密に分析することは非常に難しい。あるモデルに則って論じても、不確定要素、想定外要素が沢山あるからである。言ってしまえば、出たとこ勝負であると言うことである。何十年後に何度上がると計算で出ても、果たしてその通りになるかどうかは科学者も分からない。そうなると、科学的にどうなるか?と言うことではなく、そうなることを信じるかどうか?と言うことになる。つまり気候問題が宗教問題と化してしまうのである。

確かに、将来の気候問題を正確に論じることは誰もできないかもしれない。しかしだからと言って、気候問題を宗教問題にしてよいはずがない。厳密にその通りになる保証はないが、科学によって方向性はかなり正確に示すことができる。少なくとも、科学的に論じることは宗教的に論じるよりも数百倍マシなのである。

ガリレイやニュートンが現れる前、全ての事柄は宗教的に論じられていた。宗教が絶対であった時代なのである。そしてそのような時代に大きな迫害を受けたのが科学であった。物事を100%正しく論じることは非常に難しい。しかし宗教的に論じるよりは数百倍正確なのである。科学が70%正しいが、30%間違っている可能性があるからと言って、それを宗教的に論じてよいはずがない。気候問題は首尾一貫して科学的に論じるべきなのである。

そして一般市民が、科学的に正しいと言われているから盲目的に従うと言う姿勢をするのも間違っている。科学的に導き出された結果を市民も一緒になって考察すべきなのである。そのためにはある程度の教養が必用である。大学では最初の二年間教養課程として過ごす。なぜ大学に教養課程が必用なのか?専門の事だけを教えていれば良いと言う人も多い。しかし全ての物事を科学的、論理的に的確に論じるためには教養が必用なのである。そうでなければすぐに宗教的思考に走ってしまう。

宗教が全く必要ないと言うつもりはない。しかし科学的に論じるべきことを宗教問題にしてはならない。間違っても科学を宗教にしてはならないのである。最近では人間の心までが科学的研究の対象になっている。しかし、人間の心の拠り所が宗教であっても全然かまわない。しかし科学が宗教になってはならないのである。そのような事を、現在の地球温暖化問題が明確に示しているように思えてならない。

僕が本を買いまくる理由。

僕は今、いや、昔から本を買いまくっている。とは言え、冊数ベースで言えば僕と同じくらいの数の本を買っている人はそれなりにいるだろう。しかし金額ベースで言えばおそらく日本国民の上位1%に入るだろう。さらに収入からの割合で言えば、完全にホンゲル係数王(エンゲル係数をもじっている)であることに間違いはない。なぜ僕はこれまでに本を買い続けるのか?その理由を書いてみたい。

研究者には二つのスタイルがある。一つは完全に頭の中だけで完結する人。もう一つは多くの専門書を駆使して考える人。前者の人はかなり記憶力が良い人だと考えられるが、僕は記憶力が良くないので後者にならざるを得ない。そのような僕にとって、本は生命線でもある。なので、本にどれだけお金をかけるかが結果にも跳ね返ってくると強く思っている。

そして何より、本が大好きなのである。本屋には毎日のように顔を出しているが、最近は雑誌や一般書はほとんど買わない。それらは全て立ち読みで終わらせる。その分を専門書に回しているが、最近はこれまで僕の専門外だった生物学などの専門書なども積極的に買っている。これが意外と面白いのだ。これまでは数学バカ、物理バカで来たが、生物学や数理脳科学、化学なども取り組んでみると非常に面白く魅力的なのである。そして大事なのは、取り組むからには新しい結果を出さなければならない。単なる趣味では終わらせないと強く心に思っている。

本は財産だと昔から言われているらしいが、この言葉をどれだけの人が理解しているだろうか?本は人間の第二の脳なのである。言わば拡張人体とでも言うべきであろうか?一冊数千円で第二の脳が身に付けられるのならば、これは非常に安いのではないだろうか?稼いだお金で第二の脳を買いまくるのも、意外と悪くないものだ。

科学とゲーム。

科学は大なり小なりゲーム的な要素がある。そして科学をゲームと捉えられている人は絶対に強い。科学者とはある意味、プロゲーマーと言えるだろう。とは言っても、娯楽的に時間を潰すためのゲームでは決してない。人生を懸けたゲームなのである。

ゲームと対照的な位置にあるのが勉強だと言えるだろう。よく小学生などが親から「ゲームばかりしないで勉強をしなさい」と言われるシーンがある。これはある意味、ゲームと勉強を対照的物事と捉えている点で本質をついていると言える。しかし大事なのは、科学を勉強としてやるのではなくゲームとして取り組むことなのである。だから親たちは「勉強ばかりしないでゲーム(科学)をしなさい」と言うべきである。

科学を勉強として取り組んでいる間は、まだまだ四流五流である。科学をゲームと捉えることができれば一流の手前の二流と言えるかもしれない。しかしその先がある。その先(一流)が何なのかと言うことは人それぞれ違うし、僕が言うことでもない。なぜならそれが何なのか?それは自分で考えるべきことだからである。

大人の夢には命がかかっている!

子供のころにいろいろな夢を持っていたと言う人は多いだろう。しかし大人になるとそれらの夢をあきらめ、夢を持たなくなったと言う人が多いように思う。それどころか、大人が夢を持つなんてことがカッコ悪いと言う人さえいる。果たして大人も夢を持つべきなのか?それとも現実的に考えて夢など持たない方が良いのか?

僕は夢を持たない大人は、実は夢を“持てない”のではないかと考えている。そしてそれらの人達は、夢を持つ覚悟がないのではないだろうか?大人が夢を持つからには、単なる夢見る乙女(中年?)ではなく、それを何が何でも成し遂げなければならないし、そうでないと生きていけない。そう、大人の夢には命がかかっているのである。命をかけてまで夢に取り込もうとする人は非常に少ないのではないだろうか。だから多くの大人たちは夢を持てないのである。

自分の夢を実現しようと前に進んでいる人は、いくつかのことを犠牲にしなければならない。普通の人と同じような事をしたいなどと思っているようでは、突き抜けた夢を実現することはできない。将棋の藤井聡太七段は、大学進学を断念し将棋に専念することを決心したと言う。圧倒的な才能が有り将来有望な青年でさえそのような犠牲を受け入れなければならないのに、大人が夢を追求するのに犠牲を覚悟しないで出来るはずがない。あらゆることはトレードオフである。何かを手に入れたければ、何かを手放さなければならない。なので、自分は何を手に入れるべきか?また何がいらないか?と言うことを明確に自覚していなければならない。

夢を追求している人を笑う人たちがいる。僕はそのような人たちを逆に笑ってやりたい。何せ、それらの人は夢を持つ覚悟も才能もないのだから。現代の多くの人間の寿命は50年を優に超える。平均寿命が短かった昔なら、25歳くらいまでには夢の大まかな形を作り上げていなければならなかったかもしれない。しかし今では、50歳を過ぎてから夢を成し遂げることも可能である。だから中年だけでなく、高齢の人達も夢に取り組むことに遅いことはない。大人の夢を笑う人間は、前時代的な観念にとらわれている人間なのである。

確かに皆が皆夢を追いかけていては、それはそれで社会が成り立つかどうかわからない。しかし確実に言えることは、現在の日本では夢に取り組む大人が圧倒的に少ない。なので夢に取り組める大人たちがもっともっと必要である。現在日本は経済的にも下り坂のように思えるし、何だか表面的な事を繕っているように思える。建前万能主義社会の中で、堂々と胸を張って夢を追求する大人こそが今の世の中には必要なのである。

お金ではない付加価値。

付加価値と言えば、普通の物とは違う価値、特に金銭的価値を考えるかもしれない。車で言えばフェラーリなどは付加価値を盛り込むことが非常に上手いと言われ、実際に金銭的にも国産普通車の十倍以上の価格が示されている。さらにフェラーリの中でも、ラ・フェラーリやエンツォ・フェラーリと言った車種は価格もさることながら、お金があれば買えると言うものではないらしい。人間で言えば、サッカーの久保建英選手は十代ながら20億円の市場価値があると言う。

そのような金銭的な付加価値を上げることと同時に、お金ではない付加価値を作ることも非常に重要である。久保建英選手のような才能を一夜で身に付け数十億円もの価値を身に付けることはすぐにはできないが、お金ではない付加価値は意識の持ちようで誰にでも付けられるチャンスはある。しかし誰にでもチャンスはあるが、誰にでも身に付けられるものではないからこそ価値があるのである。具体的には、人間性や思想、そして外見もそれらの付加価値の一部になるであろう。そしてそれらの付加価値の最も重要な事は、張りぼてではないことである。表面的な事ではなく、芯から発する魅力を身に付けなければならない。

では、張りぼてではなく芯から発する人間性・魅力とは何か?そのような人間性・魅力は、窮地に立たされた時に最も表現される。人間とは窮地に立たされた時に本性が表れるものである。普段は優しく人を守るふりをしても、いざとなれば平気で人を裏切り自分の保身に突っ走ってしまう。そのような優しさは張りぼてであり、最も信用できない人間とみなされる。僕自身だって、時には人を裏切ることもあるかもしれない。しかし一つ断言できることは、僕は絶対に保身に走らない。いや、そのような人間であろうと思っている。僕は保身と言うものが根っから大嫌いだ。だから保身に走る人を軽蔑するし、もし自分が保身に走ろうものならそのような自分を捨て去ってやりたい。

そのような保身という醜い行為の対極にあるのが人間的な付加価値だと思う。人間と言うものは、いつかは死ぬ運命にある。百年後には今いる人間全てが入れ替わっていると言う当たり前の事を指摘していた本もあった。なので、限られた人生のうちの微々たる部分を延命するために保身をする意味はほとんどないと思っている。そのような醜い保身による延命を図るくらいなら、今ある人生をいかに太くするかと言うことを考えた方が良い。そのような人生を太くすることこそが、人間的付加価値を付けることだと思う。ほとんどの人は自分がいつ死ぬかなんて予測できない。そしてそれをコントロールすることもほとんど不可能だ。しかし人生を太くすることはいくらでも自分でコントロールできる。ならばそちらに力を注ぐべきではないか。それができる人が付加価値のある人間と言うものである。

何を目標にするか?

結果を出せるかどうかは、初めに目標を立てるところから決まっている。良い目標を立てることができると良い結果につながるし、良くない結果を立ててしまうとどれだけ頑張って取り組んでも良い結果を出すのは難しい。なので、良い目標を立てるセンスと言うものはある程度必要だ。

大きな目標を立てて成し遂げることができると、もちろん大きな評価を得ることができる。しかし大きな評価を立てても、それを成し遂げることができなければその評価までたどり着けない。しかし評価は、百か?ゼロか?ではない。結果を出す過程で様々な副産物が得られたり、また結果を出す過程自体が評価されることも少なくない。しかし、そのような過程がどのようなものになるかは取り組む本人にもやってみない事にはわからない。なので、どうすべきか?と延々悩んでも仕方がないので、まずは取り組んでみることが重要だ。動くか動かないかは天と地ほどの違いである。動かないで出来ないと言うのは、才能がないのと同じである。

学問に取り組む際にも、目標とする問題を明確にするのと、単にどの分野(理論)に取り組もうと言うのでは、自意識が大きく違ってくる。僕は前者(取り組む問題を設定する)方が圧倒的に良いと思っている。例えば、最新の理論に取り組もうと言う意識では、研究と言うより勉強になってしまう。問題を解くことはそれ自体研究なのである。僕自身も、ターゲットを理論から問題に変えることによって飛躍的に内容が良くなった。

問題を設定したら、まずは準備をしなければならない。しかしもちろん、準備に終始してはいつまでたっても始まらない。常に先端を見据えながら、足元も固めて行かなければならない。必要な専門書を集めることも必要だ。専門書はないよりあった方が絶対に良い。だから他人から「本を集めてばかりだ」と言われるくらいがちょうど良い。物事はお金ではないかもしれないが、お金をかけることは非常に重要である。お金を有効に活用することによって、目標へのスピードは少しずつ速くなっていく。

良い目標を立てるためには、広い視野が必用だ。そして同時に圧倒的な専門的知見も必要だ。そして目標となる問題は、必ずしも一つだけにする必要はない。複数の問題に取り組むことによって、複眼的かつ余裕を持ったアプローチをすることができる。究極の目標は、スペシャリストレベルのジェネラリストだ。

世界が小さく見えてくる。

もし自分が学生ならば、数学の世界についてどのように感じるだろうか?おそらく数学と言うものは得体の知れない部分が多く、どこに限界があるのか想像がつかないであろう。数学でなく物理や化学、あるいは経済学であってもそう感じるに違いない。しかしそれらの分野を極めることによって、それらの世界がどんどん小さくなってくる。あれほど得体の知れなかった数学の世界が非常に小さく見えてくるのだ。そうなれば数学の世界が窮屈になり、殻を破ろうとするであろう。殻を破る、すなわち新しい世界を構築するのだ。

世界が小さく見えるとは、その世界の全貌を見渡せている証である。しかし実際は、その全貌を見渡せていないまま重箱の隅を突くような研究をしている人も少なくない。その結果、全貌を見渡せている人と見渡せていない人では結果の質が大きく変わってくる。

そして他分野、隣接分野を理解することも大きな武器になる。数学に取り組んでいるのならば、数学内の隣接分野を、さらには化学、生物学などに取り組むのもいいだろう。そして重要なのは、専門外の分野だから知識を仕入れるだけでいいとは思わずに、その分野でも何か新しい結果を出そうとすることが重要だ。それが僕の言うジェネラルサイエンティストへの唯一の道である。

しかし、現在まだ結果を出せていないことを悲観することは全くない。しかし明確なビジョンを持てていないのならばかなり悲観的である。まずは到達点をはっきりとさせ、それを基にビジョンを構築することが必用である。時間をかけることが必ずしも良いことだとは思わないし、早く結果を出すことに越したことはないが、大きな目標を掲げているのならばじっくりと時間をかけるのも重要である。結果を出すまでは外野がうるさいであろうが、そんなことは結果を出せば全て解決することである。じっくりと腰を据えて、大きく深く問題に取り組むことにしよう。

古本の活用。

本を一冊買うくらいなら何の問題もないが、十冊二十冊と買っていくとやはりそれなりの出費になる。さらに専門書となると一冊一万円以上するものも多く、そのようなものを毎月これでもかと買っていくと懐が痛くなる。

そこで最近は、書物を買うときは古本をフルに活用することにしている。書物はブランド品と違って、価値が落ちることは全くない。確かに紙としての本は古くなり値段も安くなるが、本と言うものの本質は紙ではなく、その中に書かれている情報だ。だから本が古くなったからと言って中に書いている情報が劣化すると言うことはない。

Amazonなどで見ていると、専門洋書の原版よりも日本語翻訳版の方が高いことが多い。最近見た本では、洋書原版が一万一千円、それに対して日本語翻訳版が二万四千円。じつに日本語版の方が倍以上高いのである。そこで僕は、洋書原版のさらに中古の状態の良い本を六千円で注文した。おそらく明日くらいに届くであろう。お金が湧き出るようにあれば新品の本をどんどん買えばよいが、資金に制限があるときは古本をフルに活用して、さらに日本語版ではなく英語版を買うと言った対策を取った方が良い。

僕はAmazonや明倫館書店(自然科学書専門の古本屋)のサイトを頻繁にチェックしているが、意外と掘り出し物があるものだ。掘り出し物とはある人には価値がないが、ある人には大きな価値があると言うものだ。人の価値と自分の価値は全く違う。自分の価値感をしっかりと把握していれば、自分にとって非常に価値がある掘り出し物の古本が見つかるに違いない。繰り返し言うが、本の価値は紙ではなく中の情報にある。そこを認識していると、古本を最大限に活用し、思い通りの結果を出せるに違いない。

ストレスがたまるぜ!

日本と言う国は、本当にストレスがたまるぜ!いや、僕の場合、海外に住んだとしてもストレスはたまるだろう。どうしたらストレスフリーな生活を送れるのか?僕の永遠の課題である。

しかし誰でも、大なり小なりストレスはたまるものかもしれない。しかし僕の場合はあまりにもストレス耐性が弱い。そのくせに強固なる絶対的な意志を持っている。意志を貫けば貫くほど、どんどんストレスがたまっていく。それはもう僕の運命だと言うしかない。ストレスフリーになるのはあきらめて、これからどうストレスと共存していくかと言うことを考えた方が良いかもしれない。

ジェネラルサイエンティスト。

ジェネラリストとはどのような人のことを言うのか?いろいろな事をまんべんなくできる人のことをジェネラリストと言われる事がある。しかしそれはジェネラリストでも何でもなく、単なる普通の人でしかない。僕が定義するジェネラリストとは、あらゆることに対してスペシャリストレベルである人である。なので、ジェネラリストになるためには、まずスペシャリストになることが必用だ。

最近はあらゆる分野において細分化が進んできている。それは科学においても例外ではない。物理学者であっても分野が違えば、同じ物理学のことでも全く分からないと言うことも少なくない。そのような研究者を物理学者と呼べるだろうか?そのような人はもはや物理学者でさえない。

では、科学を志しているのならば究極的にはどこを目指すべきなのか?僕は「ジェネラルサイエンティスト」だと考えている。すなわち、科学のどの分野に対してもスペシャリストレベルであると言うことだ。細分化が進んでいる現在において、そのような事は本当に可能なのか?僕は可能だと考えている。もちろん、誰もができることではない。だからこそ挑戦すべきではないだろうか。

ジェネラルサイエンティストになるためには、全ての科学に対してスペシャリストレベルでなければならない。その中でも少なくとも一つの分野では世界でトップレベルにならなければならない。そのようなジェネラルサイエンティストは世界でも数えるほどしかいないだろう。しかし、ある分野で世界でトップを極めている科学者は、他分野に関してもスペシャリストレベルであることも少なくない。もし科学を極めたいのならば、ジェネラルサイエンティストを目指すことは最も挑戦的な取り組みに違いない。そしてそこから科学以外の分野にはみ出していくことも非常に面白いだろう。