月別アーカイブ: 9月 2019

これからの自動車。

現在、自動車は大きな変革を遂げている。電動自動車から燃料電池車、そしてその名の通り“自動”車、つまり自動運転車まで、話題は尽きない。自動車を評価するとき、評価基準は様々なので一概にどの車が良いとは言えない。昔なら最高時速や馬力などの評価が中心だったが、現在ではどれだけエコかという基準が大きなウェイトを占めている。

そのように変わりゆく判断基準の中で普遍的な基準と言えば、どれだけカッコいいか?ということだろう。特に男性ならカッコ良さにこだわる人は少なくない。女性においても、お洒落かどうかは気になるところだろう。カッコ良さと言えば外見を想像するかもしれないが、一部の高級車においては排気音などにこだわる人も少なくない。特に街中で大きな音を出して排気音をふかしている車もよく見かける。

しかし僕は思うのだが、十年後に大きな排気音をふかして目立とうとする人などいるのだろうか?いや、おそらく十年後もいるだろう。しかし問題は、それがカッコいいかどうかだ。今は大きな排気音をふかしているフェラーリがカッコいいと思われている。しかし十年後にはとてつもなくダサい行為だと思われているに違いない。何しろ電動自動車の時代である。もしかしたら、水素などの燃料電池車も普及しているかもしれない。どう考えても、静かな車であることがステータスだ。フェラーリからも静かな電動車が発売されているかもしれない。(今でもハイブリッド車のフェラーリが存在する。)

個人的には燃料電池車が普及してほしいと強く願っている。現在では燃料電池車はトヨタの独壇場だ。しかし少し前、トヨタが燃料電池車の技術を他社に向けて公開した。それがきっかけかどうかは分からないが、先日BMWが燃料電池車の試作車を公開したというニュースがあった。電動電池車の元となる電気のほとんどは、元をたどれば発電所で使用される化石燃料であり、原子力だ。どう考えても水素を燃料とする燃料電池車の方がエコである。しかし、その水素を製造するのにも電気が必用である。そうなれば、どちらがエコ的に効率的かということである。

とは言え、電動自動車よりも効率的かつエコ的なガソリン車という選択肢も残されている。今、マツダがそのような道を突き進んでいるようだ。これは従来の延長線上にあるように思えるが、現在のトレンドから言えばむしろ独創的である。こうなれば、後は市民がどれを選ぶかということにかかっている。そこで的確な判断をするために、我々市民も様々な技術的知識を習得することが求められる。とは言え、時代に逆行するようなバカな判断も僕は個人的には嫌いではない。

進化生物学者・木村資生博士に対して下した僕の評価。

最近、進化生物学者の木村資生博士(1924-1994)の書いた本に目を通した。科学書としてはかなり面白い本であった。その木村博士に対して僕は評価を下したい。進化生物学者としては一流であると感じたが、人間としては極度に視野の狭い人間である。人間としての評価は低いと下さなければならなかった。もちろん、僕は木村博士に対して評価を下せるような立場の人間であるわけではない。ましてや僕は生物学の専門家でも何でもない。それを承知の上で僕が下した評価である。

木村博士が人間としてどのように低レベルなのか?その理由を書き表したいと思う。生物学の知見を人間に適用するときには、特に慎重にならなければならない。そして一側面から見た判断ではなく、多面的に捉えなければならない。しかし木村博士は、人間を遺伝学的にしか捉えられていない。人間の未来に対して、非常に狭い視野からしか捉えられていないのである。そして慎重さが全くない。さらに批判の受けそうな意見は他の学者の受け売りであると責任を逃れている。

もちろん、進化遺伝学的な見地からの意見としては一理ある。しかし人間の将来を論じるにあたっては、遺伝学的な視点だけではすぐに限界に達してしまう。人間の未来を建設するとき、一番大事なのはいかに人間が人間らしくいられるかということである。もちろん、そのような事は科学の範疇からは外れるかもしれない。しかし科学者だからと言って、科学以外の事に対して無知であってはいけない。いや、科学者だからこそ、社会や哲学的な事にも思考を向けなければならない。そういう意味では、木村博士は科学理論を構築することには長けているかもしれないが、科学者としては失格だと言わざるを得ない。

人間社会の背景と言うものは、時代ごとに変わっていくものだ。そういう意味では木村博士の生きた時代の背景と言うものは今とは違うものであり、人間に対する考えというものも今と違うのは当然かもしれない。しかしその一方、時代が変わっても不変なものも存在する。そのような普遍的なものを理解することが、真理を探究する科学者にとって不可欠な要素でもある。そういう意味で、木村博士の議論は時代背景の違いを差し引いても容認できないものである。特にこれからの時代は、科学者は科学だけをやっていればそれで良いという時代ではない。倫理や哲学、そして人間の心など、あらゆるものに目を向け、思考と想いを巡らさなければならないと僕は強く感じている。

挑戦!

いつからだろうか?僕は挑戦というものに強いこだわりを持つようになった。学問における挑戦、私生活における挑戦、社会における挑戦、そしてお金に対する挑戦。今の自分は挑戦なしに語れない。するか?しないか?と問われればほとんどの事に挑戦するつもりだが、もちろん無駄な挑戦までする必要はない。しかし挑戦は僕の人生における原動力だ。挑戦抜きに今の僕の人生は語れない。

僕の挑戦において一番重要なのは、言うまでもなく学問における挑戦だ。専門は数理物理だが、最近はあらゆる学問が面白い。だから様々な学問に取り組んでいる。そしてそれらの学問が、専門分野にも有機的な好影響をもたらすと考えている。

学問、私生活、社会、お金。これらに対する挑戦は全てつながっていると考えている。もちろん優先順位を付けることは重要だが、それらの有機的なつながりを忘れてはいけない。

今、これらに対する結果が出ようとしている。この「今」が今年になるか?来年になるか?その先になるか?まだはっきりしないが、少なくとも近い将来総合的な結果が出ると手ごたえを感じている。結果は勝手に出るのもではなく、自分で出しに行くものである。だから挑戦なしに結果は出ないと思っている。

今、人生が非常に充実している。人生で三番目に苦しい時ではあるが、挑戦し続けることによって大きな充実感を感じている。一年後が楽しみである。そして一年後、本当に楽しんでいられるように、全ての挑戦すべき物事に全力で取り組んでいこうと思う。

世の中ってのは。。。

世の中というのは、強い者の味方だ。それは社会においてもそうだし、スポーツの世界においてもそうだ。別に味方になってもらうために強くなるわけではないが、ただ自分の実力を向上させて強くなることは重要だと思う。

しかしどんな人間にも、強い側面があれば弱い側面もある。100%強い人間なんていないのかもしれない。だから強い人間は弱い人間を助ける必要がある。それは社会的に権力があり強い存在である政治家が、一般市民を助ける必要があるように。しかし現実には、強い政治家が強い者の味方になっていることが散見される。

人間として強くありたいと願うことは普通だと思う。誰も弱くなりたくて弱くなっている人間はいない。弱い側面を強くすることが重要か?それとも強い側面をより強くすることが重要か?どうやら日本社会では前者の方が重視される傾向がある。それはそちらの方が社会的に大きなメリットがあると考えられているからかもしれない。一昔前までならそれでよかったかもしれない。しかし現在は、社会も学問の世界もあまりにも大きくなりすぎている。だからすべての事において力を発揮するということはほとんど不可能である。だから自分の得意分野を徹底的に伸ばし、不得意分野をそれが得意な人に任せるという体制が必用ではないか。

社会において、全てをそつなくこなす人もそれなりにいる。しかしそのような人の多くは、全ての事において「可もなく不可もなく」という無難な人間になってはいないだろうか。しかし、一つの事にこだわり、タコツボ化するのも良いとは言えない。一つの事だけしかできない人より、二つの事ができる人の方が良い。専門は複数持つべきだと思う。例えば、数学とファッションでもよい。いやむしろこのように大きくかけ離れたことを同時にかけ持つ方がより良いのかもしれない。

意外とすべての事は有機的につながっている。このような有機的なつながりを強さに変えて、そして弱い人を助けられる人間になりたいものであるが、そこまで精神的な余裕を持つことは簡単ではない。しかしいつかはそのような事ができる大きな器を持った人間になりたいものである。

理論の力。

科学においても社会においても、理論なしで物事は語れない。もちろん、理論だけで語れないことも多いが、科学においては理論と実験は両輪であり、社会においても理論と実行は両輪である。

科学の研究を行いたいと思う時、どのような事を想像するだろうか?おそらく多くの人は、試験管をグルグル回しながら実験している姿を想像するのではないだろうか?そして実験などしようにも、施設も実験器具もないし、大金もないので、できないに決まっていると思い込んではいないだろうか?そこでだ。科学は実験だけで成り立っているのではない。実験結果から理論を構築し、そして理論を実験で確かめる。すなわち理論があるではないか!実験ができなければ理論を行えばよい。基本的に理論はお金がかからない。とは言え、もちろん専門書を購入したり、論文を入手するためのパソコンとプリンターがいる。専門書は一般書に比べてもかなり高額である。しかしその気になれば理論はいつでも研究ができる。だから科学研究をしたければ、理論をすればよい。

理論は一般の人が思うより威力がある。よく理論を「机上の空論」だと言う人がいるが、確かに現実社会における生活においてはそのような事も多いが、科学においては多くの場合、理論は実験よりも強力である。その最たる例がアインシュタインの相対性理論であろう。

また、数学を行うのもかなり良い。専門的数学分野を研究するためにはかなり高度な知識がいるが、しかし現代社会においては、その気になればそこまで到達できる道は開けている。あとはどこまで頭脳を使って考えるかである。なにより、数学はペンと紙だけで出来る。ペンと紙で宇宙を網羅することができるのである。

実験と観察の科学だと思われている生物学においても、理論は非常に重要だ。最近、進化学の本を読んでいるが、進化学というのは、自然淘汰に基づく数学(特に統計学と確率論)だと言って過言ではない。数学を駆使しないと進化さえも語れないのである。

理論は皆が思うよりも強力である。ならば理論をものにしない手はない。もし科学に対する興味と実行力があれば、今すぐペンと紙を用意して理論に取り組むのはどうであろうか?理論に魅了された一人として、理論の威力(と魔力?)を多くの人に感じ捉えてくれればと強く思う次第である。

スランプの克服。

先日、大スランプだという記事を書いたばかりだが、ここ数日、大スランプ脱出のヒントを得られた(かもしれない)。スランプ脱出の一番難しいところは、そのスランプの原因がはっきりしていないことだ。だから何を改善すれば良くなるのかということがなかなか絞り込めない。しかし場合によっては、数個の要因まで絞り込めることがある。もしそこまで絞り込めたのなら、とにかく試行錯誤して探っていくことが必用だ。

僕もここ数か月、様々な試みを行って改善を図ってきた。しかしなかなか改善の糸口が見つからない。そのうち、状況は少しづつ悪化してきている。しかし、あきらめずに試行錯誤を続けることによって、一つの原因を突き止めた(と思っている)。その原因はあまりにも身近にあり、また長年抱えていた悩みでもあった。しかし、その改善を行うことは普通の人なら簡単な事であるが、僕にとっては究極的に難しいことである。しかしその点を改善することにより、状況は確実に良くなってきている。

スランプを克服するために必要なことは、一つは「実行力」、そしてもう一つは「思考力」である。僕は徹底的に考えた。スランプの原因は何なのか?時間は少しかかったが、その原因を突き詰めることができたようだ。それができたら、次は実行である。思考と実行は物事を成し遂げるための両輪であり、それはスランプ脱出においても例外ではない。プロ野球選手がスランプに陥るという話はよく聞く。そこから脱出できるかどうかは、その両輪を機能させることができるかどうかだと思う。プロ野球選手だから、実行力はずば抜けてあるだろう。なので後は頭を使うことができるかどうかだ。イチローがスランプに陥ったと言う話はほとんど聞かなかった。それはイチローが極度に頭を使って野球に取り組んでいたからではないだろうか。

僕もスランプの原因にもっと早く気づき実行していたのならば、一年早く結果を出せていたかもしれない。しかしそんな過ぎ去ったことを言っても仕方がない。これからスパートをかけて、一刻も早く結果を出すことが求められている。しかし妥協は絶対にしない。これからが非常に楽しみである。

物理学の形式主義。

近年、物理学は、ますます形式主義に傾いてきているように思える。このような形式主義を批判する人も多いが、その一方、形式主義は多くの恩恵をもたらしてくれる。では物理学の形式主義とはどういうことか?それは「数学的形式」だと言える。そもそも、物理学はその誕生時から数学と密接に結び付いている。ニュートンが力学を打ち立てた背景には、ニュートン自身による微分学の定式化がきっかけとなっている。物理学は数学的定式化を成功させて初めて成り立つのである。

物理学の中でも、数学に対する依存度は様々である。物性理論よりも素粒子論の方が圧倒的に数学的である。さらには、数理物理のような物理学の数学的定式化自体を目的にしたものもある。物理学から数学を遠ざけることはある意味退化だと言える。しかしそれが退化だとしても、それに意味を見出し生き残っていく可能性は大いにある。しかし物理学の進化は数学の発展を用いて初めて成し遂げられることが多い。

20世紀中ごろ、数学界では構造主義という考えが吹き荒れていた。フランスの数学者集団ブルバキが強く推し進めていた考えであるが、僕はこのような思想は今の物理でこそ威力を発揮するのではと考えている。今の数学や物理学におけるキーワードは「多様化」であると僕は感じている。なのでそれらの学問を一つの思想の下でまとめることは不可能である。しかし僕は、物理学の構造主義を大きく推し進めて行きたいと考えている。

現在、学問の多様化を推し進めるあまり、全ての分野において平等化が起きているように思える。しかし多くの理論の中には、重要なものもあればそうでもないものもある。これらを一律に並べることは避けるべきである。なぜなら、一律に並べる、すなわち重要度を判断しないということは、物事の本質を掴めていないということである。しかし、まだ開花していない取り組みを評価することは非常に重要である。しかし、現在の評価基準は全く逆転している。ビジネスでベンチャー企業を支援することが重要であるように、科学でも可能性のあるベンチャー研究を支援すべきである。山中伸弥教授のiPS細胞は、そのような大きな可能性のあるベンチャー研究を支援することにより花開いたのである。

現在、科学の世界は多様化しているが、構造主義的に推し進めることは最も大きな可能性を秘めているのではないかと僕は強く感じている。

大スランプ。

年単位で考えれば、調子が良い時と悪い時がどうしてもある。このような調子の波をなくすことは、多くの人の課題であろう。一時的に調子が良いだけではなかなか目標を達成することはできない。一番大事なのは持続である。持続的に取り組み、持続的に成果を挙げていく。それによってさらに上にある目標も達成できる。

僕は現在、大スランプに陥っている。なかなか浮揚策が見出せないでいる。焦りもあるが、ビジョンはしっかりと保持しているので、そこは少し安心している。浮揚策を見出すために、様々な試みをしている。例えば筋トレやジョギングをして体を動かしたり、コーヒーやお酒を飲む量を制限したりとかだ。これとスランプの何が関係あるのか?と思われそうだが、意外とこのようなことが関係していたりする。だから些細な事でも、それが良い方向へとつながると感じれば取り組むことにしている。

もちろん、根拠のない取り組みはしない。では根拠とは何か?一つ目は科学的根拠であり、もう一つは経験的根拠だ。科学的根拠を判断するときには、疑似科学には注意しなければならない。世の中には疑似科学(エセ科学)が蔓延している。僕は数理物理という科学に取り組んでいるので見分けることができるが、本質を見抜くことができないと疑似科学に振り回されることになる。そしてお金も健康も失ってしまう。

現在の大スランプを脱出できるかどうかは、僕の実力にかかっていると思っている。そして常に自力本願を心がけている。険しい関所ではあるが、乗り切れる自信は大いにある。

「記憶」か?「思考」か?

記憶が良くて、思考も深い。これが一番理想かもしれないが、僕は記憶力が悪い。短期的記憶も長期的記憶も、どちらもかなり良くない方だ。しかし、記憶力が悪ければ思考でカバーすればよい。確かに記憶力が悪いことはかなり不便ではあるが、致命的ではない。しかしこの逆に、記憶力は良いが思考ができないとなると、数学や物理においては致命的だ。いや、記憶力が悪いだけでもかなり致命的かもしれない。しかし、思考力で何とかカバーしている。

世の中を見ていると、記憶力でものを言わしている人はかなり多いように見受けられる。しかし思考力でものを言わしている人にはほとんど出会わない。そもそも思考力があれば、ものを言わすという発想自体不必要なのかもしれない。「ものを言わす」という言葉は、自分の実力以上の威厳で押さえつけるという意味合いがある。しかし、思考力自体がその人自身の実力だと言える。だからものを言わす必要がないのだ。

数学を記憶力だけで進めることができるのか?確かに高校数学くらいなら記憶力でかなりカバーできる。いや、大学数学だってカバーできる。いや、既存の理論を理解するくらいなら記憶力で乗り越えられるかもしれない。しかし、新たな理論を作るとなると話は別だ。新しい理論の構築は、99%思考に依存している。だから思考力なしで理論の構築はできない、しかし記憶力があれば非常に便利だ。それは僕もひしひしと感じる。しかし記憶力が悪ければ、それはそれでよい。むしろ、記憶力が悪いからこそ思考の方に頭を使おうと努力できる。

最近、生物学に興味があり、ちょっとした生物学書を読むことが多い。とは言え、生物学の専門家でない僕の取り組みなど大したことはない。しかし生物学の論文くらいは読みたいものである。少し前、山中伸弥教授のiPS細胞の原論文に目を通したが、やはり専門用語などが分かり辛い。特に、遺伝子などの様々な名称が理解できなかったりする。生物学は昔から暗記の割合が大きい学問だと言われている。しかし現在の生物学はかなり論理的、化学的、物理学的になり、思考の割合が増えているように思える。博物学的な側面が強かった時代から見れば隔世的だ。しかし最低限の記憶は必要だ。記憶力の悪い僕が、副々専攻としての生物学をどこまで究められるか?これはある意味一つのちょっとした挑戦だと思っている。

「権力」対「知識」。

世の中には、自分の意見を通そうとするために権力を手に入れようとする人が多い。確かに権力を手に入れれば、自分の思うようになるように思える。しかし、自分の意見を通そうとするためには、もう一つの方法がある。それは「知識」による攻勢だ。これは簡単に言えば、銃で攻撃するか?ペンで攻撃するか?ということである。そして僕は迷わず、ペンを武器にすることを選ぶ。

僕には愛用している一本の万年筆がある。そのペンは僕が大学院に進むときに友人が贈ってくれたペンだ。だからかなりの年月になる。その一本のペンで数学や物理の研究を行い、インクのカートリッジはもう百本以上交換したのではないだろうか。その万年筆はもう僕の手足である。

ペンで理論を重ねれば、その力は国家権力よりも大きなものになると僕は考えている。とは言え、僕は権力を手に入れるために理論を重ねているのではない。ただ真理を見極めたいがためにペンで理論を重ねているのだ。しかしこの先、何らかの権力と対峙することもあるかもしれない。そのような時は迷わずペンを武器にしたい。

銃の威力は誰でも分かる。しかしペンの威力は、ペンを使い倒した人にしかわからない。だからこそ、ペンの威力を認識した人が一人でも必要なのである。この前の内閣改造で、河野太郎氏が外務大臣から防衛大臣へと横滑りした。今、日韓関係は、どうやら銃の威力の方へ傾いているように感じて仕方がない。しかしペンの威力、すなわち正常な外交の力を最大限に利用しなければならない。もちろんこのためには、日本だけでなく相手側にも良識が求められる。これから河野太郎氏が相手側の良識を引き出せるか?河野氏の手腕にかかっている。