月別アーカイブ: 6月 2018

サッカー日本代表、何が問題なのか?

サッカーW杯ポーランド戦、日本代表の戦いはあまりにも不甲斐無かった。特に終盤はパス回しによる現状維持で怒りに震えた人もいるだろう。僕もそのうちの一人だ。勝っていて、あるいは引き分けでそれを維持するためにというのならばまだわかる。しかし“負け”を維持するためのパス回しなど聞いたことがない。正直言って西野監督には失望した。

では、この終盤のパス回しによる現状維持の何が問題なのか?確かに現状維持すれば決勝トーナメントへの出場へ大きく進むことになる。目の前の勝負を捨て、その先の勝負を取ると考えれば、そのような作戦も十分にありだ。

しかし問題はそこではない。日本代表が戦っている時、もう一つの試合であるセネガル対コロンビア戦も同時に行われている。そちらでコロンビアが1点リード。このまま行けば日本は1点差で負けても決勝トーナメントへ進出が決まる。しかしセネガル対コロンビア戦もまだ終わっていない。つまり日本代表は自分たちの運命を現在進行中の他試合に預けたのである。まさしく他力本願。他試合の行方を“自分たち”で左右することはできない。ここに問題があるのではないかと思う。

とは言え、とにかく決勝トーナメントに進出が決定した。次の試合で西野監督の評価の全てが問われる。もしベルギーに勝利すれば西野監督は大きく再評価される。しかしベルギーに負けると西野監督と日本代表は世界の笑いの的になる。それが勝負の世界である。

なぜ大学教育では真理探究に重きを置くのか。

大学、学部、学科によって学ぶ目的は様々だが、大学教育というものは基本的に真理探究に重きを置いている。いや、正確にはそれに重きを置くべきだということかもしれない。

なぜ真理探究に重きを置くべきか?それは大学を出た後に大きく関係する。人間として、あるいは社会人として上を目指していくためには、常に勉強を続け、技術を身に付けることが必要になる。そのためには基盤が必要になる。その基盤こそが大学での真理探究なのである。

最近は大学での実学志向が甚だしい。すぐに役に立つ知識、すぐに役に立つ技術を学生が求め、大学側もそれに応えようとしている。しかしすぐに役に立つものは、枯れるのも早い。言い方を変えれば小手先の知識・技術であると言うことである。

また、すぐに役に立つものばかりを追い求めると、選択肢も狭まり、将来性を縮小させることにもなる。基盤知識・技術を身に付ければ、一生学び続けることができ、社会の変化にも柔軟に対応できる。

真理探究というものは、知識を追い求めることではない。思考を追い求めることである。現在の情報社会では、知識などというものはコンピューターで検索すれば瞬時にいくらでも出てくる。そこで必要になるのが人間の知恵である。

これからの情報社会、コンピューター社会で生き残る鍵は、人間らしさと人間の思考であるはずだ。

科学とは原理の事だ!

科学という言葉を履き違えている人が多い。科学とは結果ではなくて原理の事だ。

例えば、エジソンは蓄音機を発明したが、蓄音機から音が出てくることが科学ではなくて、蓄音機から音が出てくる原理が科学なのである。発光ダイオードが光って照らされることが科学ではなく、発光ダイオードから光が出てくる原理が科学なのである。

現代社会は科学によって成り立っているとはよく言うが、社会におけるシステムや機器は科学から導き出される結果であって、科学そのものではない。何か科学的現象を体験するだけで科学に触れたと勘違いする人がいるが、原理にまで踏み込んで初めて科学なのである。

現代においてはほぼすべての事がブラックボックス化され、科学的側面が覆い隠されている。従って科学技術によって発展してきた社会が、皮肉にも人々を科学から遠ざけてしまうことになっている。こんな現代社会だからこそ、シンプルでも原理が見えるものに踏み込んでみることが必要なのではないか。少なくとも最先端技術に対して原理に踏み込むことは容易ではない。

この様な事を考えると、現象がどのような原理に基づいて成り立っているのか、ますます見えづらくなってくる。

身体と精神がますます健康になっていく!

タイトルに相反するようだが、ここ二日間くらい少し体調を崩した。と言っても微熱があり、だるいくらいなので、ちょっとした不調と言った方が正しいかもしれない。

しかしもう少し長い目で見ると、僕の身体と精神はますます健康になってきている。ブログで何度も書いたように、健康は最大の実力であると考えているので、僕の身体と精神の健康は胸を張って誇れるものかもしれない。

何らかの不良がある時、多くの人は薬に頼ることだろう。風邪をひいたときには風邪薬をというふうに。もちろん、薬に頼らないに越したことはない。薬を飲まずに元気でいられることは、非常に素晴らしいことだ。しかし、不調である時に薬を飲んで元気になれば、それはそれで良いことだ。しかし薬に溺れてはいけない。

僕はここ五年くらい、ほぼ毎日筋トレをしている。おかげで身体は若い頃以上にたくましくなってきているように思える。数学や物理の研究においても、研究者は「一に体力、二に体力、三四がなくて、五に知力」とはよく言ったものだ。体力と精神の健康は何よりも大事である。

しかし、この健康を無駄にしてはいけないと強く思っている。健康であることを最大限に生かし、前に進むことが大事である。

「俺は、俺は」を考え直す時。

自分に余裕がない時、一番に考えるのは自分の事だ。「俺は、俺は」の思考で考えれば自分の事が前進するように錯覚するが、実は自分の事というのは他人と、あるいは社会と結びついているので、相手の事を一番に考えることが周り巡って自分の事にプラスに働くことがよくある。そのことに気付くことが大事である。

とは言え、「俺は、俺は」と考え、自分が最前線に出て行くことも時には重要である。

現在、サッカーのワールドカップが開催されているが、日本のサッカーは基本的に組織的プレーである。それに対してアフリカ勢のサッカーなどは個人技が大きくものを言っているように思える。確かにどちらが優れているという訳ではないかもしれないが、組織的プレーを重要視する日本にも「俺が、俺が」と自分が出て行き決めることも大事なように思える。

僕はと言うと、基本的に「俺は、俺は」という人間である。個人技で勝負するという人生を信条としている。しかし当たり前の事だが、自分一人で生きているわけではない。従って周りの人の事を考えることも大事である。その部分の加減は難しい。しかし自分にしかできないことがあるなら、そこでは「俺が」と自分が出て行くべきである。

とは言え、何事も組織的に進め協調性を重要視する日本においては、個人技で勝負する人間に対しては風当たりが強いものである。

出来る気しかしない!

「出来る気しかしない!」と言ったら自信過剰だろうか?いや、本当に自信過剰である。しかし僕には出来る気しかしないのである。

僕には非常に大きな目標がある。そのための明確なビジョンもある。足りないのは細部を詰めることである。ただ、細部を詰めるには高度な技術がいる。その技術の習得に励んでいる。

もしこれで出来なかったら、単なる自信過剰である。その意識が本物か偽物か?それは結果が答えてくれる。

ただこれまで、かなりの時間がかかっている。それは僕の悪い癖である。これまでいくつかの事を成し遂げてきたけど、時間がかかりすぎている。現在の目標を達成するのにも時間がかかるかもしれない。

自信過剰で出来なかったら単なるほら吹きであるが、今は単なるほら吹きではなく、大ぼら吹きになろうと思っている。そしてその大ぼらを吹いたことを実現させる。ただそれだけで、それ以上でも以下でもない。

今は大ぼらを吹いて、自分を追い詰めようと思う。

草書のような理論。

書道には楷書と草書が存在する。楷書とは律義でしっかりと書かれた書体で、草書とは流れるように書き崩した書体と言える。僕のような書道の素養のない者にとっては楷書の方が分かりやすいが、書道のプロは草書を流暢に書き上げる。

ところで物理理論や数学理論は厳密にしっかりと構成されているので、書道で言うと完全に楷書の世界のように思える。しかし物理理論や数学理論にも草書のような世界があるのではないかと感じるところがある。しかしそれがどのようなものか、明確には出すことができない。

しかし一つの見解として、楷書は論理そのものであり、草書は論理の中にある感覚ではないかと思う。物理学者や数学者は、数式や理論を見ただけで数式を計算して解かなくてもある程度の世界が見えてくる。数式を眺めるだけで相互作用がどのように働いているかということが視覚的に見てとれる。そのような感覚が草書ではないかと思う。

書道のプロは、草書を流暢に書くことができるが、基本である楷書を書いても一流である。物理学者も楷書をしっかりと書くことは基礎として当たり前にできるが、いかに科学における草書を流暢に書き科学的世界観を表現できるかということが一流の成すべきことではないだろうか。

専門外の事から、スキルを修得する。

物事は意外と一見関係のないようなところから結びつくものである。それは勉強や研究であったり、人付き合いであったり、あるいはITスキルであったりする。

普段の生活において、専門の事だけをして過ごせるということはまずありえない。したがって多くの専門外の事、あるいは雑用をすることになる。しかしそのような雑用の中に意外なヒントが隠されている。またそのような専門外の事を学ぶことによって、人間の広がりというものが生まれてくる。

ノーベル賞物理学者の南部陽一郎氏は、ノーベル賞受賞の対象となった自発的対称性の破れの理論を、超電導理論(BCS理論)から導いたという。もちろん南部氏は超電導理論の専門家ではなく素粒子論の専門家である。

近年、数学と物理の垣根がきわめて低くなってきた。数学者は物理理論からヒントを得て、物理学者は数学者が顔負けするくらい高度な数学を駆使する。数学と物理学の双方にまたがる数理物理学という区分も、かなりメジャーになってきている。

視野を広げることが大事なのは万人が認めることだが、なぜ視野を広げることが大事かと聞かれるとそれに答えられない人も多いのではないだろうか?しかしその答えは考えて導かれるものではなく、実践して導かれることであることを忘れてはならない。

上手くいかない時こそ考える。

物事が上手くいっている時は、何も考えていなくても次々と順調に進むが、上手くいかない時は何をやっても上手くいかないことが続く。しかし上手くいかないからと言ってネガティブにとらえるのではなく、そのような時は熟考するチャンスだととらえ、徹底的に考えるのが良い。

考えるというのは主体的な行為だ。だから周りから情報を集めるだけでは何も考える事にはなっていない。考えるという行為は情報を集めることではなく、自分の中で物事を構築していく作業である。

ただ、考えたことが結果として表れるまでにはタイムラグが現れる。そのタイムラグの間、どこまで耐えられるかということも行方を左右する。

考える事には、直接的なお金も情報もいらない。いや、多少なりともヒントとなる情報と、それを入手するためのお金は必要かもしれないが。しかし情報の沼にはまってしまえば、考察の楽園にはいつまでたってもたどり着けない。

ヒカキンさんの着眼点がすごい!

19日、サッカー日本代表が大金星を挙げて、日本は大盛り上がりだ。例のごとく試合後、渋谷にはたくさんのサポーターが集まりすごい騒ぎだったようだ。

ところで、ワールドカップのスポンサーになってコラボをし、名前をアピールする企業はたくさんある。そしてそれらの企業はおそらく何千万円、もしかしたら何億円のスポンサー料を払っていることだろう。

しかしヒカキンさんは全く違うことを考えていた。試合翌日の6月20日のヒカキンさんのチャンネル「HikakinTV」では、騒ぎが収まった後の早朝の渋谷でゴミ拾いするというものであった。これは一見すごく地味に見えるが、0円でワールドカップとコラボ(?)し、しかも街が綺麗になり、さらにYouTube動画を作るという、一石三鳥の離れ業である。このヒカキンさんの発想と着眼点には脱帽だ。

この動画を観て、多くのユーチューバーがいる中なぜヒカキンさんが絶大な人気を獲得しているか、良くわかった。皆がユーチューバーをやっているわけではないが、ヒカキンさんの発想と着眼点には大きく見習うところがあるはずだ。

自分が取り組んでいる分野で、ヒカキンさんに負けないくらいの自由な発想で力を発揮してみよう!